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2016年11月21日 (月)

<価値>を生む、対幻想2

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想に非肯定=否定が介入、生成して認識がはじまります。母子一体(自他不可分)の状態からの分節化であり、ここに他者、世界、自己が生まれます。


fr  2015年5月17日 (日)<内コミュニケーション>のトレードオフ

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 

リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。


       -       -       -

fr  2016年4月 2日 (土)<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?


fr  2016年5月 6日 (金)認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

 

自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

 

「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>


fr  2016年5月20日 (金)<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。

2016年10月29日 (土)

<価値>を生む、対幻想

対幻想は<個別的現存>でしかない人間が<人類>であることを可能にするもの。シンプルにいえば人間にとっての根源的な価値を産出するもの。そして認識の初源になるものです。認識は対幻想から遠隔対称化する…と考えてきた過去のものを並べてみました。


fr  物語の生まれとはじまり

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

●(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


fr  『心的現象論序説』 P30

自己観察によって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


fr  『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
  第5章 脳と心  1―構造としての階層  (4)前頭葉  P153

脳の最終の統合領域である連合野が脳のなかに一つではなく、
いくつか同時にあらわれたことは重要である。
なぜかといえば、
連合野どうしのあいだに想念のやりとりがおこなわれうる基礎ができたからである。
考えることの本質は、自分が自分に問いかけ、これに答えるところにあるならば、
ここにはじめて脳は考えることのできる存在となったわけである。
観念の対話があって、はじめて認知や判断といったいわゆる知能とよべるはたらきが
生まれてくるのであろう。


fr  2007年2月17日 (土)独解=<ゼロ>の発見

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>とニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。


fr  2011年3月25日 (金)『共同幻想論』・祭儀論から考える

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。


fr  2011年7月15日 (金)『共同幻想論』・対幻想論から考える

P176
…<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、
いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、
集団の共同的な体制と独立しているといってよい。

共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、
はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が
おおきく登場するようになったのである。 
もちろんそれは近代以降の<家族>の問題である。

 対幻想は集団からは「独立している」という断定はわかりやすく、多くの読者が共有する対幻想への理解がここにあります。それはまた同時に共同幻想そのもの(への理解)を難しくしているものでもあるでしょう。親(子)に対する対幻想(家族)と男女間の対幻想(性)は異なりますが、それは時間への関係性の違いです。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。


fr  2011年9月 8日 (木)『共同幻想論』・罪責論から2

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。


2016年5月 6日 (金)

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

   認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
   意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
   これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P219~220)

   自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
   それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
   そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
   まちがいなさそうです。

   多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
   といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。

   しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
   つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
   知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
   他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
   「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
   意識の成立に決定的に関与することを、
   最近の発達心理学の研究が示しています。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P159)


 この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
 少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。

 

 自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』


 「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

2016年4月 2日 (土)

<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 911の後に安堵した人がいます。それは、胎児が致死量に相当するアドレナリンによる陣痛で生まれてくるように911から産出されたもの…ともいえそうなもの。カタストロフィではあるが、その荒波に放り出された、文芸評論家の加藤典洋氏は、その心情を吐露しています。それは、間違いなく<大洋>でまどろむかのように荒波に身を任せ、回帰したとも再生したともいえるもの。この「安堵」は911で唯一の肯定できる転回かもしれません

 そして加藤氏はポスモダに向き合うことにし移入思想を受け入れるようになります。
 それは、リスキーな現在を超えるスタンスに立った、ということ。リスクを了解してこそ得られる視線をもった立場についた…ということです。
 ポスモダの仕上げのような近代への全否定である911…。ここから得られるものはグランドリセットでありラジカルな更新…

 ポスモダな世界観では「憐れみ」が最期の人間性のようでしたが…。
 東浩紀氏から「吉本派」と呼ばれる加藤氏は、最期の人間性を動物由来の「憐れみ」に見出そうとするポスモダな世界観…に比して、どういう解をだしたのか…。それが<世界心情>です。911の後に安堵したという加藤氏が、それととともに自覚した心情が<世界心情>だったのです。

 <世界心情>とは、ホントは誰もが持っている<心>のハズ。
 すくなくとも人類としての人間には前提になるもの。

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋
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 加藤氏は<世界心情>をコンティンジェンシーの文脈で説明しようとしますが、911という圧倒的な抑圧(とその後の安堵)から<世界心情>を感受したのであれば、その過程をそのままトレースしてはどうでしょうか? 個人の心情が生まれるのは<公>や<他>による軋轢であることが共同幻想論で解析されているからです。

           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 共同幻想によって対幻想が抑圧されることが自己幻想が生まれるキッカケである(「共同幻想論」)ならば、すべての自己幻想の前提に「対幻想への抑圧」に対する反発・反動・反作用があるはず。

 アリストテレスやライプニッツに由来する偶有性やコンティンジェンシー(あるいはWコンティンジェンシー)を吉本隆明的に、そして弁証法的に縮減すれば…

   対幻想が否定されることへの否定

…となるかもしれません。すくなくとも科学が抽象であるならば、こう表せるハズです。
もちろん冗長性にしか自己発現を見いだせいないような哲学や思想は相変わらず、その屈折語に由来するせいか婉曲な迂回路を必要とするのでしょうが、ここではそれは無関係。

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

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ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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 ヒントはハイイメージ論のプロローグである「映像の終わりから」にあります。そして、共同体の終わりが告げられるハイイメージ論のエピローグである「消費論」とともに、そこには、現代を見切った<世界視線>があります。

   自己言及の不可能性

   過剰に対応する倫理の不在

 現実には資本主義の商品という指示表出の環界のなかで、<人工の視線>に紛れ溶融してしまう<世界視線>の純粋疎外状態と、過剰に対する倫理の不可能性という状況をクリアする方法が必要だということでしょう。


 金融と民主主義と軍事というグローバリズムによる世界の一体化のなかで、南の主導によってしか世界心情が現われないのはナゼか?

 グローバリズムという規範と化した共同幻想に抑圧されていくもの探れば解はあるハズです。史観として拡張されたアフリカ的段階を逆立して読むこと…別のいい方をすれば、レヴィ=ストロースが敗北者たちの群れと呼んだ、その敗北者から世界を観ること

           
アフリカ的段階について―史観の拡張

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悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

原著:Claude L´evi‐Strauss
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 フーコーとの対談前後に現象学的歴史観が可能だと考えていた吉本隆明。その後、見田宗介の社会理論に可能性を見いだしていった経緯は、ここに明らかです。
 ポスモダを正面から受けとめた見田宗介のスタンスは、現在を超えるヒントを可視化し、吉本隆明はそれに期待し、加藤典洋はそれを世界心情として了解した…といえるのではないでしょうか…。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
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2015年12月26日 (土)

対幻想論との緊張が読める―『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』

斎藤環氏はジジェクを通してマルクスにもある程度の理解があり、ラカンの異端派を自称する臨床医であるとともにサブカル論をはじめ各種評論に活躍している。特にひきこもりの問題を提起し公的に認識させた功績は大きい。村上春樹のファンとしても、多くを専門書よりそこから学んだとするほど。デヴィッド・リンチフリークでもあり文芸からサブカル、映画を問わずノンジャンルの批評が人気。『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』は対幻想を意識しつつ書かれたもので、吉本隆明の『家族のゆくえ』と比較すると面白い。第三世代システム論(オートポイエーシス)の影響を受け理論的に詰めた『文脈病』では「可能性の中心」を示しつつポスモダを超える自負をかいま見せてもいる。

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<家族>をめぐる対幻想論との緊張が読める、かも

 06年に刊行された著者の本の中でいちばんいいかもしれない。まず読みやすい。そしてラカン派の臨床医である著者の基本的なスタンスがわかりやすく示されている。クールな著者が自らについて語っているのも見逃せないだろう。
 ところで、本書は、明らかにその基本的な部分で吉本理論が意識されているようだ。
 「家族制度を支えている幻想とは、「対幻想」ではなく、「エディプス三角」なのではないか」(P105)。酒井順子の『負け犬の遠吠え』を援用しつつ唐突に主張されるこの一言は、それだけに印象に残る。
 実をいうと「対幻想」を否定するために「エディプス三角」が主張されたこの構図は『構造と力』の再現でもあり(浅田らは団塊や全共闘世代と決別するために彼らの教科書であった吉本・対幻想を否定する必要があった。よくある世代間闘争だ)、大澤眞幸の〝吉本隆明は踏絵だった〟という指摘を待つまでもないかもしれない。
 社会の構成要素を、それは<対>(2名の関係)なのか<三角>(3名の関係)なのか....というのはフロイト以来の論議なのだろうが、この論議を現代の日本に当てはめると、それが世代間の論争になってしまう。フロイト=対=対幻想論(吉本)という団塊や全共闘世代がフォローする認識があり、ラカン=エディプス△=『構造と力』など(浅田、斎藤、etc)ニューアカ以降に支持されるドゥルーズ・ガタリ的な潮流がある(あった?)ということだ。その他に〝2名以上いれば権力が生じる〟とした宮台真司の権力論(『権力の予期理論』ほか)があり、社会システムの生成と稼働の根源に対の関係を見いだし、2名の関係で一方の人間の他方の人間への認識が一方の人間を自縛するように作用する過程を説明している。相手に対してどう対応するかを選択する時、その選択の自由によってその選択肢の構造に自縛されていく訳だ。

 P173には本書の理論的な成果が要約されている....
 「二者関係の空間こそがプレ・エディパル(前エディプス期)の空間なのである」
 「さまざまな自明性」は「プレ・エディパルな二者関係において形成される」
 「二者関係は幼児期だけのものではない」「成人して以降も、常に個人の自明性を支える空間として機能し続ける」「しばしば反復する」
 「「家族」こそは、この種の反復における、もっともありふれた器のひとつなので
ある」

 ....プレ・エディパル(前エディプス期)な二者関係による自明性は生涯反復され、家族はその器なのだ....という説明だ。ある種の読者はここでデジャブを感じぜざるを得ないだろう。なぜならこれこそが28年前に吉本隆明がフロイトを徹底的に読解しつつ独創した<対幻想>概念そのものだからだ。
 人間は「エディプス三角」を通過することで「社会化」されるが、「自明性」はそれ以前に二者関係において形成される、という説明は、そのまま対幻想論であるし、そして自明性の揺らぎこそが典型的な精神の病ではなかったか?
 ことさら吉本隆明を贔屓するつもりはないが、本書の結論は対幻想論と同じであり、それはフロイトを丹念に読んできたものなら当然にたどりつくものだ、ということにつきるのだろうか。
 著者のオリジナルな見解を読む機会は多々あり、精神分析とシステム論の融合を略るなど期待したくなる試みは少なくなく、今後も注目していきたいが、個人的には吉本理論との関係が気になった。

2006/12/26 18:47

           
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文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

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2015年10月31日 (土)

スタートでありゴールでもある…2つの心的現象論

 『心的現象論序説』は知の巨人が書いた最も難解な本…本書の宣伝コピーを書くなら、こんな風になるかもしれません。共同幻想などの言葉で有名な詩人吉本隆明氏の、原理論三部作のうちの一冊。個人の認識=心的現象からすべてを解き明かしていくもの。『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』とともに原理論を構成しています。

 原理論三部作はある意味で同じテーマをそれぞれ3つの位相から探究したもので、メインのテーマは<関係>。あらゆる意味で人間関係というものが究極のターゲットになっているといえます。マルクスでいう上部構造です。下部構造が生産緒関係という事物の関係=経済そのものであり、上部構造はその事物を媒介項とした人間関係(社会関係)であり、そこには文明や文化、そして商品としてのあらゆる生産物(との意味)が入るでしょう。心的現象論序説はそれらを人間の認識=観念の運動から解き明かしていきます。

 心的現象論序説の用語には原生的疎外純粋疎外などの哲学系のもの、ベクトル変容遠隔対称性などの位相幾何学系のものなど独特の概念が登場します。しかしソーカル事件で問題になったようなアバウトな趣きはなく、東工大出身というバリバリの理系の知見であることがわかります。著者は詩人ですが理論に関しては<水>を<H2O>(エイチツーオー)と表現したいと述べるほど徹底した科学者のスタンスが貫かれています。

 そのために数学や論理学といった理系的なクール?な概念の本質と由来が自然の過程として説明されています。たとえば非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学との認識論的切断があるとしても、それより本質的な同一性があることを自然過程として把握する吉本の思想があります。ライプニッツの神も自然が転換する契機となる変数だ…というのが吉本の認識(ハイイメージ論)であり思想なのです…。

   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

 数学や形式論理は指示表出だけの論理ですが、自然史的な過程を超えた認識はあり得ないことを前提に、数理概念も自然の一部でしかないという当たり前のことが当たり前に認識されています。…吉本の思索がある種無色透明に感じられることがあるのは、こんなところに理由があるのかもしれません。

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

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 吉本隆明の思索は<関係>とういうものをターゲットに、その一点にフォーカスしていきます。初期のマタイ伝をエグザンプルとした探究で<関係の絶対性>という言葉が評判になりましたが、このスタート時点で、ほぼラストまでを見切っていたともいえるのも、吉本隆明の思想家としての大きな特徴なのかもしれません。

           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

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定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

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 原理論である三部作それぞれから<関係>へのアプローチがされています。
 <共同幻想>は吉本理論で有名になった言葉ですが、これには3つの呼び方があります。『心的現象論序説』では<幻想的共同性>、『言語にとって美とはなにか』では<社会的幻想>と呼ばれ、<共同幻想>というのは『共同幻想論』での呼称です。それぞれのスタンスで同じ<関係>への呼び名が異なるようになっています。<公的幻想=Public Illusion>(マルクス)から(の)演繹?あるいは意識したものとしての、概念装置としてディテールまで考慮された用語でもあるといえるでしょう。

           
心的現象論本論

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 『心的現象論本論』は30年以上かかり未完に終わったとされていますが、吉本自身が想定どおりに終わったとも語っています。この本論はエグザンプルが豊富で、領域もノンジャンル。縄文の土偶からLSD投与実験、錯覚心理学やニューエイジの生命論のようなものまで詳細に思索されていて、同じように資本主義の商品すべてを扱ったハイイメージ論を思わせるものがあります。
 ハイイメージ論は共同幻想論の現代版として、現在に共同性の倫理が不在であることを結語としています。現在はある意味で共同性としては“終わっている”…という認識。しかし固有時をかかえた人間は過剰ななかを生きている…。そこで心的現象論本論はあらゆる症例を、あるいはすべてを症例と捉え、人間の可能性を探究しつつ展開されていきます。最期には心的現象のもっとも共同性をまとったものとして言葉の可能性が示され、日本語の自由な造語の可能性に期待を寄せているという印象のラストになります。

           
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 国家や社会という大きな共同性の倫理の不在を結論として示した『ハイイメージ論Ⅲ』。
 そういった情況のなかで、大きな共同性への最期の論考でもある『第二の敗戦期 これからの日本をどうよむか』では、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッシュで「三人ぐらいでつくる集団」に期待すると宣言されています。吉本さんの若い世代へ向けた言葉が印象的です。シェアハウスという言葉は出てきませんが、ネットや小さな共同性への期待は<大衆の原像>とオーバーラップさせることも出来るものではないでしょうか。まったく新しい世代に読まれているのも、吉本隆明の思想らしく、その可能性への探究もまだまだこれからだと思われます。そのスタートにもゴールにもあるのが2つの心的現象論ではないでしょうか。そこには、固有時をめぐる無限の思索がありそうです。

           
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2013年4月30日 (火)

リニアな<価値化>と春樹ワールドの<遠近法>

・美という価値判断は人間の究極のものだろうけど、それだけにそれが何であるかはわからないことが多いかもしれない。たとえば<赤>という色が情熱を指すのか、血を象徴するのか、熱帯的なプリミティブなものを感じさせるのか、なぜクオリアの質感を触発するのか…などなど。

美に関していえば、その考察はモードや化粧論や誘惑論といったフランス現代思想的なものがあるだろうけど、ハイイメージ論はこれらをダイレクトにフォーカスし、しかも描き切っている感がある。ファッション論やJケージ論がそれ。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?


   色彩は自然を模倣するが、配色は論理を模倣する…
              (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」)

   幻聴の基本的な形式…に気がついていた人は、
   ひとりは宮沢賢治、ひとりはJ・ケージだ。

              (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」)


あらゆるモノゴトが自己の価値判断(究極は審美的な判断)として行使される(だけ)なら現実の数だけさまざまな主張や理論があるだけで、それらは普遍性を示していても共同性や共同体の何らかのファクターを示しているとは限らないのかもしれない。

戦後最大の思想家は、最深の思索をもって、それをブレークスルーしようとした…その痕跡を眺めるだけでも、大きな何かを得られるような気がする…。


・批評理論だけがそれらの陥穽?や呪縛あるいは自縛から逃れられる唯一の論なのだと思う。吉本隆明はあらゆる個別的現存ゆえのしがらみを払拭するために批評理論を目指しながら、詩人として自己の個別的現存を世界に露出させることで均衡してきた感がある。最後にその統御としての論を目指したのが芸術言語論だったのではないだろうか。沈黙は幹だが、沈黙だけでは何ら価値は発現せず無に帰してしまう。これは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』でも重要なテーマだったもの。


   文明とは伝達である、と彼は言った。
   もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。
   いいかい、ゼロだ。

 
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村上春樹がいう“手をつなぐのがイヤだからデモに行かなかった”的なものは、共同性への拒絶としてけっして小さな理由ではないかもしれない。むしろそれこそが身体的な判断としての共同性への拒否であるというのは根源的で、どこかに吉本隆明への経路さえ感得できる気がする。逆にいえば極論として、普遍化するためには身体性を捨象しなければならず、それでも残る関係性は言語(で)しかないというのが吉本の根源で前提だからだ。


   「遠くから見れば、」と僕は海老を呑み込みながら言った。
   「大抵のものは綺麗に見える。」


           
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・水を酸素と水素の化合物…というよりもH2Oと表現したいとどこかで語っていた吉本隆明が意味するのはどういうことなのか? このH2Oという物理化学上の表現は指示表出的なもので、他の水に関するさまざまな表現それぞれとともに両極を構成するもの。自己表出としての水をめぐる多様な表現と対をなすH2O…。ポスモダ的にいえばパフォーマティブとコンスタティブな…。


・マルクスの経哲ノート的に人間を類からみれば人間の価値の初源は対幻想における充足であり、それは個別的現存から見ればハイイメージ論でAスミスを援用して説明されるように内臓感覚に帰結する。三木成夫を持ち出すまでもなく、内化=受容のマテリアルな位相は内臓感覚であり、それは分子レベルの代謝をベースとする環界との関係性だ。逆に空間的な媒介(遮断も含む)を前提とした情報ベースの環界との関係性に対応するのが外化=表出周辺のモノゴトで、入り口は感覚。

   2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である。

ここまでは身体性に還元できたり推し量ることができるものかもしれない。
しかし、共同幻想論における対幻想の定義が心的現象論序説のそれとは異なるように、共同幻想そのものへのアプローチすべき位相はまだまだ他にありそうだ。ベキ上化あるいは自己言及や再帰性といったものとは違った経路にはファンクショナルな思索にも可能性があるかもしれない…。

   対幻想への禁制という否定性が共同幻想を生成する。


・常に対幻想を振り切ろうとするスタンスにしか批評の仮構された立場が存立し得ないことを自ら買ってでた思想家。その論拠にも人そのものにも太刀打ちできるものがいない事実はあまりにも当たり前な気がする。自己表出あるいは作品にはなり得ない批評…という他界の禁忌のような頂に一人で挑んだ孤高…。単独者にもまさる何かがそこにあるとすれば、それを知りたいという願望もまた禁じ得ないのかな…というのが吉本隆明という存在への全般的な最終的な自らの価値判断かもしれない…。他界禁忌ともいえる二重否定の向こうに獲得する観点はどんなものなのか? 一切に還元できない拠点を自らの直接性に求めるという運動(=詩作)を営んだ吉本隆明の方法論は知るほどに恐ろしいものでもあるのかもしれない。

       -       -       -

前回のエントリー「<写像>ということの意味?ソシュール・吉本隆明」の後半にいつものようにカッコ悪く力んだ文を書いていた。ポイントを絞れば以下の3文で数行のもの。結論すればとか極論すればとか、本質的にはとかいつもの文章だけど、それを紹介してくれているblogがあった。吉本隆明について多くのテキストが読める「ニュース逆さ読み」のエントリー「対幻想と自己表出」だ。吉本隆明と時代を共有したであろう世代の方に取り上げていただいたのは正直サプライズだった。ありがとうございました。

前回エントリーのポイントは以下…

* 結論からいえば「美」という価値判断も、あらゆる識知も、対幻想的な認識構造を前提にしている…ということになります。
* 極論すれば、想像すること思念することそのものの前提が対幻想で(も)あり、それは価値判断の前提であると同時に自己表出でもある…という吉本芸術論のリニアな姿を現してもいます。
* 本質的には2、3行で済むと自称された芸術論が先端科学から宗教まで含むものとして吉本理論の全景である…このことそのものが既に強大な思想の顕在化でもあったものとしての思索がそこにはあります。


2012年8月 2日 (木)

無意識は構造化している?(ラカン)…無意識の多重性

 フロイトの<無意識>概念に対するラカンの解釈、無意識は構造化している…“無意識は言語として構造化している”…というのは鏡像段階論とともに有名だが、機序には科学的なエビデンスがなく推論の域をでない。もちろん推論でも構わないが、無意識を探究する経路には、しっかりした論理的なものがあるし、そこから推論されるべきだろう。鏡像段階論もある特定の個体では確定できるケースもあるかもしれないが、普遍的には困難だ。もちろん論それ自体がメタフォアだからという換喩としてなら…意味があるが、ラカンの体系そのものが、シニフィアンの連鎖…といった時点で臨界であるか限界であるかを感じさせるのはブレークスルーまちの証左とも取れる。アラン・ソーカルは数理的なアプローチ(の間違い)にケチをつけたというよりも、衒学そのものとしてラカンらを遊んでみせた…のでないだろうか?

 素朴な疑問はすべての科学のはじまりだが、精神分析も哲学もそれは同じハズだ。
 たとえば、無意識とは何なのか?…という設問そのものに解の端緒があることは、すべての科学的(つまり論理的)思考の基本と同じ認識になるだろう。

 <無意識>が示しているのはその指示表出のとおり<意識でない>ことか<意識できない>ことなので、ソレを探せばいいワケだ。
 <意識する>ことを<考える>ことだとすれば、論理学そのものであるかのように、<考えること>の限界や{非<考えること>}を抽出できる。つまり論理の限界が考えることの限界なので、それを抽出すればいいことになる。論理の限界は有名な定理や公理としていくつか示されているので、それをそのまま考えることの限界とすることが可能だ。

 結論からいうと、無意識は意識するということ考えるということの限界として把握できる。あるいは無意識は意識できないつまり対象化できないこととして考えても把握できる。

 意識ではないコト、意識できないコト、対象化できないコト…これらの空間性の属性をマルクスの思索方法の影響を受けている吉本式に時間性におきかえれば解への経路は明白だ。

 たとえば、乳胎児の発達という段階的なものからのアプローチが可能だ。
 そこでは、母の意識も無意識も、乳胎児の無意識を形成していく…。

以上からすぐに以下のような「無意識の多重性」が抽出できる…

 ・意識する・思考することの論理的な限界として自己言及の不可能性=自己矛盾がある。
 ・いまだ意識化・対象化できていないこととして認知不全の領域がある。
 ・母(体)からの影響=転写としての無意識があり、母の意識も無意識も子の無意識となっている。

 “無意識は言語として構造化している”というラカンの主張は、それ以上のものではないが、「無意識の多重性」は吉本理論にアタックしていてたどりついた、一つの結論だ。吉本さんは“同じことを5年以上続けたらプロとして成果ができる”とどこかでいっているが、「無意識の多重性」は7年前にゴールした解のひとつだ。

2012年7月17日 (火)

予期理論やラカン…から

吉本さんが去勢から析出する思想として、または去勢(抑圧)そのものへの評価として取り上げるものにジャック・ラカンの思想があります。ラカンへの評価は高く、その読解も見事だと考えられますが、ラカンへの批判の部分で、まだここでは理解できないものがあり、そのままにしていました。ただ自分なりのラカンへの独解はありますので、ここにコピペしておきます。エディプス△の設定を対幻想から観て?と考えた部分がポイントですが、吉本理論からでは△の時点で共同幻想化(関係の関数化)であるので、それをどう捉えるかの問題に収斂するのかもしれません。

母型論(プレエディパル)→ハイエディプス論の展開の中でのポイントは、時点ゼロの関数化、ゼロへの代入、遠隔化する過程です。これは発達心理学的なものですが、吉本さんの恐ろしさはその自己幻想が析出するのは共同幻想と対幻想の軋轢であることを共同幻想論で示したことでしょう。こちらの方が生物学的(個ではなく類から見る)なアプローチでもある事実から、吉本さんが幻想論を構想した時の壮大で深遠な思慮がわかります。これは『資本論』をめぐる基本的な認識で“科学的認識とは、上昇か下降か”の論議になった見田石介の提起した問題をクリアしてしまう方法(論)です。たぶん柄谷行人さんなどは、この周辺の問題意識を空間的(価値形態論的に)にズラして(ディコンストラクションして)マルクスに可能性を見出しているので、以前に書いたように「タームから入ったのではなく思索から入った思想家だけが持つポテンシャル」からの成果になるのだと思います。読書(訓詁学)や翻訳(コンバート)といったテクノクラート的な作業はテクノロジーに代替されていきますが、思想は“場”の数だけあるという事実は西田哲学でもマルクスでも吉本でも共通した認識ではないでしょうか。<大衆の原像>とは無数の場を指すことでもあるからです。

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●予期を生む<否定性>

 対幻想への否定性が共同幻想を生成していく過程は、『共同幻想論』の基本的な見解です。(宮台真司さんの『権力の予期理論』などの基礎的な認識である『権力/何が東欧改革を可能にしたか』などでも、“人間が2人出会えば必ず権力の萌芽を見出せる”ことが論証されています)

 

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

 それは以下のような機序が生じる....

   劣位者の対幻想の共同幻想化        (概念化?)
   対象(優位者)の象徴化             (形態化?)
   象徴にともなうシステム化            (規範化?)

....と考えられます。
( )は認識論として該当する位相について。

●〔<母=子>⇔父〕以前の認識

 ラカンはこれを主体からみた父性(優位者)との関係として、そこに象徴界の生成(システム化)を見い出そうとしているようです。

 ラカンが誤解されやすいところは、対他認識が2つの個体(あるいは主体と対象の)=2者間で行使されることを無視して父性=第三項を暴力的に介在させていること。
 逆にいえば暴力=力を顕在化させるには母=子に対して父を登場させることが条件の最適化ですが、そのことによって〔<母=子>⇔父〕以前の認識や論理に関しては不可知にならざるを得ないという陥穽があります。

 その不可知な領域を現実界として顕在化させたならば、それはラカンのアクロバットな知恵かもしれませんが、そのことが~以前=EXCE^{'}Sの状態として不問に付されることのイイワケにはならないでしょう。
 「原初的不調和」という認識を提出しても、それ以上の探究が免除されるわけではないハズです。
 このように過剰な論理性に依拠する理論こそがラカンの本質なのかもしれません。だからこそラカン自身による「フロイトへ帰れ」という言葉がスローガン化しうるワケでもあるのかもしれません。
 また、一般的に理論の限界は論理の矛盾によるものであることを推察できれば、次のステップへのブレークスルーは可能でしょう。吉本理論はこの可能性に依拠したものだといえます。それは“最大の思想家”と呼ばれる根拠でもあるハズです。

●<純粋疎外>概念の可能性

 過剰な論理性は必ずゲーデルの定理のような論理そのものの限界に致ります。でも、その限界にこそ、ブレークスルーを生むものとしての心的現象論の可能性を見出すこともできるハズです。たとえば<純粋疎外>はそういった可能性を秘めた概念であり論理です。それは<ゼロの発見>に相当する、境界人工、その可能性を担保するものとしての中心となる概念装置です。

(2005.11.11,2012.7.17)
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2012年6月12日 (火)

<対幻想>論を超える?『超恋愛論』

 <超対幻想>という言葉があるとすれば、それは従来の対幻想論を超えているかもしれません。事実、吉本さんの『超恋愛論』という本は数多くの著作のなかで、もっともラジカルな問題提起がされています。

 三角関係と友だちとバイオレンス
 あるいはファシズムとゲイ

       -       -       -

 アメリカでも多いドメスティック・バイオレンスですが、アメリカなど欧米の家庭内暴力の特徴は夫が妻に暴力を振るうこと。
 日本の家庭内暴力には外国のそれと違う特徴があります。子供が親に暴力を振ることで、これはまた日本の固有の現象に近いようなひきこもりとセットになっていることが多いようです。

 家庭内暴力の発生と増長?の原因として“私的な秘密”が考えられます。

 

 日本の家庭や共同体の特徴に、外部に対して家庭内(共同体内)のことを秘密にするというのがあります。
 また、上位の共同体に対して秘密にするという傾向もあるでしょう。

       -       -       -

 一般的に、個人が生まれそこに帰属する家族という領域があります。対幻想と共同幻想が錯綜?し、あらゆるものに発展する可能性のある領域です。ダイレクトには<大衆の原像>の依拠する場所になります。

 この領域(幻想領域)を社会全体のなかに位置づけるとある特徴が顕著になります。社会的な多くの共同幻想がこの幻想領域より上位として扱われているのではないか?と思われる傾向があることです。これに関しては共同幻想論の論考の中でももっとも価値のある吉本さんの指摘があります。現行の共同幻想は通時的に前段の共同幻想を対幻想化する、あるいは近隔化する、または矮小化する、という傾向があることです。おそらくこの延長には国家や宗教のラジカルな問題=理由がある考えられます。それは国家や宗教の問題はそれが幻想であるということや信じるから成立するといったフォイエルバッハのような多くの思想家が到達した認識の次元にはありません。誰もが幻想をもつならば、特定の幻想を指摘してもあまり意味が無いからです。それより、幻想相互の関係を指摘した<関係の絶対性>といったような吉本さんの指摘の普遍性が、フラット化した現在社会でこそ価値を発揮する認識となるでしょう。

 一般的に私的なものが公的なものに対して秘密である、あるいは私的なものは外部や上位に対して秘密であるという傾向は、<関係の絶対性>のある特徴を現しているものと考えられます。

       -       -       -

 上位(あるいは外部)からみれば、秘密である下位(あるいは内部)の意志はどのようなものなのでしょう。
 簡単にいえば、公的な位置から私的なものはどのようなものなのか?ということです。

 対幻想の意志がそのまま共同幻想の意向に反映されることはないように、共同幻想の意向(掟、法を含む)が対幻想の意志を汲み取ることもないでしょう。では、汲み取られたり反映されたりすることのない意志や意向はどのように扱われるのか? 無視されたり否定される意志とはどのようなものなのか?
 答えはカンタンです。極論としてはそれらは共同幻想からは“罪”として規定されるワケです。
 国家や宗教によって罪の概念や種類が違うのは、単に国家や宗教の違いに由来すると考えられます。

 たとえば、天津罪・国津罪のように罪の定義が錯綜するのは発展段階、歴史的階程そのものが錯綜していることの反映でしかありません。そして罪の主体、罪人も英雄も演じさせられているスサノオの姿と物語は、錯綜する共同幻想を反映した象徴的な存在ということになります。

 天津罪は農耕民族が主導した規定であり、国津罪がより原始的(アフリカ的段階)な罪であると認識できます。また歴史的な変遷を前提とすれば天津罪は経済的(一次産業上的)な罪であり、国津罪は共同体に即した罪であるともいえます。個別科学にとらわれることがなかったこれらの認識が、共同幻想論を他を圧倒する論考にしているといえます。

  共同観念に属するすべてのものに、
  大規模で複合された<観念の運河>を
  掘りすすめざるをえなかった。

 以上のように古代の支配階層、知識人の意図からそのレベルまでを見切った『共同幻想論』は、訓詁学では到達し得ない認識と、機能分析では接続できないリアルへのアプローチを示してくれました。

       -       -       -

 思春期の恋愛の特徴に友だちを通してアプローチするというのがあります。交際を申し込むのも、付き合いを断るのも、共通の友だちを通してコミュニケートするワケです。
 たとえばA男の恋心を友だちであるB男がメッセンジャーとしてC子に伝えます。あるいはD子がC子の気持ちをA男に伝えるのかもしれません。とにかく友だちが気持ちを伝達するメディアとなるわけです。3者の関係はA→B→Cというリニアな伝達関係です。

 やがてこのリニアな3者関係は2者関係になります。
 メディアでしかないBは排除され、A→Cの関係になります。
 本来の目的である2者関係になるわけです。
 伝達役であった共通の友だち(のようなもの)を排除して1対1の関係に入ります。
 これが大人への第一歩ですね。

 ここでの大きなポイントは伝達役が必要とされると同時に必ず(その後)そのメディア役は排除されるということです。はじめに3者が相互に知り合いである△関係があり、それがメディア役を間に挟んだリニアな関係となり、まもなくメディア役は排除されて(正常な、近接性を高めた)2者関係(対幻想)になります。

 この対幻想はメディア(伝達役、第3者)を排除して成立することがわかります。
 これは母子関係の自他不可分を初源とする次元の対幻想とは違います。
 母子関係自他不可分<時点ゼロ>からスタートする<差異ゼロ>の状態です。
 しかし、△関係からの特定の一項を排除して成立する対幻想は違います。
 そこにははじめから△関係という社会性があります。

 初源の対幻想と△関係からの対幻想。
 対幻想には2つの次元があることがわかります。

 初源の対幻想は、認識の祖型となり、人の一生のあいだの認識を左右すると考えられます。
 しかし、△関係からの対幻想は初源の対幻想を踏まえ(抑圧、去勢)つつ、遡行不可能な認識として人間のその後の認識に影響を与えそうです。象徴界が言語や法の世界であるというのは、このことそのものでしょう。遡行不可能な度合いそのものが象徴化の度合いそのものであるということでもあり、それは、“強度”のスケールでもあると考えられます。

 これらの点から逆に、ひきこもる、つまり外部に対して閉ざす(自己が秘密になる)という事態に対して、第3者による強制的な介入を解決手段とする斎藤環さんの認識は正当(正統)なものといえるでしょう。また、これらの機序として、対幻想と共同幻想の関係の絶対性を見出しているのは吉本さんの原理的な思考の深さを示しています。

       -       -       -

 『超恋愛論』つまり<超対幻想>といったタイトルが示しているものは、完成した他の論考より深いものがあります。
 そこには、吉本さん自身が示しているように、三角関係や友だち、バイオレンスあるいはファシズムとゲイといった問題へのヒントや解があるワケです。
 (フラット化した社会でのリアルなオーダーでは審美的な価値をめぐるアプローチなどで“つけ耳はなぜ魅惑的か?”つけ耳に萌えてしまうのはナゼか?”といったような東浩紀さんらのものがあります。スノッブなフランス現代思想では解が見当たらない“誘惑”や“化粧”といったものへのラジカルなアプローチがそこにはあります。吉本さんでいえばハイ・イメージ論の世界になります。)



           
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