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2014年9月30日 (火)

<自己抽象>と<自己関係>の2つの系

現存在分析的にアプローチすると、人間の個体は2つの系から構成されています。
<自己抽象>と<自己関係>の2つの系です。

2つの系は、言語に表出するものとしては、
たとえば「は」と「の」という助詞に象徴的に表象していると考えられます。
「ワタシは…」(自己抽象)と「ワタシの…」(自己関係)の、「は」と「の」のようにです。

自己抽象は自己意識そのものであり、対象化されていない自己。
「ワタシは…」の「は」は自己を限定する機能であり、自己以外の何ものも指示していません。
自己関係は対象化された自己であり、その対象と主体にまたがる両価的な自己。
「ワタシの…」の「の」は自己を対象とする機能であり、自己の何ものかを指示しています。

自己抽象は対象のない意識そのものであり、それは時間(性)といえます。

自己関係は自己を対象とする関係であり、それは空間(性)といえます。

この時間性と空間性(の錯合)があらゆる認識のベースとなっていきます。


 いっさいの了解の系は
 <身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
 いっさいの関係づけの系は
 <身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を獲得するようになる。
              

(『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

了解の系としての4つの時間性=クロック


意識の動きそのものである時間性。
対象との関係そのものである空間性。
この2つの総合として認識が構成されていきます。
「対象との関係」の初源の対象は自己の<身体>になります。


  人間の現存性を支えている根拠は
  <わたしは―身体として―いま―ここに―ある>という心的な把握である。

  <いま>は現在性の時間的な言い回しであり、<ここ>は空間的な言い回しである。
  このばあいもっとも問題になるのは<ある>という概念である。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P177)


<ある>に析出する原認識ともいうべきもの。
探究されるのは現存在として既に錯綜している<ある>の内容…。
数理的に追究されそうな定理ともいうべきものが、
心的現象論では数行の論述で把握されていきます。

冪乗、遠隔化、逆立といったファンクショナルな(ものの)動因も、
その構造そのものにある…
という思索が可能な根源へのアプローチです。


  <わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の識知は、
  その次元を自己の<身体>にたいする自己の
  <自己了解づけ>と<自己関係づけ>の位相においている。
  これは、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば、自然-観念現象に基づいている。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P178)


身体(という自然)に依拠しながら、そこには還元できない観念の現象…。
身体への自己言及が不可能だが必然な領域としての純粋疎外…。
自然へプラグしようとする知覚と、対象をリーチングする運動…。
行動と観念が未分化の胎児からはじまる心的現象の自然過程…。
それらを環界として覆っていく言語そのものの展開…。


   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93


現象学の遁走を追究しながら展開される、心的現象論の異様ともいえるほどラジカルな射程。
難解で有名な思索の、意外にシンプルな論述が心的現象論に結実していきます。


心的現象論本論

著:吉本 隆明
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改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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2010年9月 8日 (水)

幻想論=上部構造論のターム

 『共同幻想論』の序文ではマルクス理論の上部構造という概念を使い古されたタームなので幻想領域としたと紹介されています。
 幻想(論)の根源と発端が(人)類を形成するための関係(性)を析出し生成するという本質的なものである以上、共同幻想・対幻想・自己幻想という3つの幻想の位相公的関係(公的オーダー、public order)・親和的関係(親和的オーダー、close order、intimate order)・自己関係(自己オーダー、personal order)といったタームによってより機能的な意味を明確にすることも可能だと考えられます。

       -       -       -

●共同幻想
 公的関係
 公的オーダー
 パブリックオーダー
 public order

●対幻想
 親和的関係
 親和的オーダー
 インティメイトオーダー
 close order
 intimate order

●自己幻想
 自己関係
 自己オーダー
 パーソナルオーダー
 personal order

2009年4月 8日 (水)

人間のすべてが語られる『超恋愛論』

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ 』に続く思想や理論ではない軽い談話のような本。しかし、ここにはどのハードな吉本本にもなかった問題がクローズアップされています。個人幻想からひきこもり、そして淡い恋から情熱的な人間関係、約束、掟、法律と国家や宗教の関係、家庭内暴力、三角関係、そして表現-指示表出までが展開する吉本ワールドがそこにあります。

 いままで<対幻想>を根底においてきた吉本さんが、ここでは<三角関係>を取り上げて、社会が成立した以降の三角関係ならではの観念の動きについて考察しています。恋愛からファシズムまで、そしていまだナゾの心の動き…。日常的な言葉で、しかし吉本理論の臨界ともいうべき困難な問題を、どのように困難かが語られています。

 対幻想の究極と三角関係の不思議を考察しながら、そこに恋愛の極限と日本の後進性を見出しています。

 対幻想(家族関係)から観念が遠隔化していく階程を解き明かしたのが吉本理論のメインでした。この観念の遠隔化を遡行した時に、どこまで遡行可能なのか?というのは一つの大きな問題ですが、フロイトを援用する形では<エス(→自我)>がひとつのゴールだと考えられます。『心的現象論序説』に示されているように自己が自己を対象化した時点で〝幻想対〟といえるからです。
 エスから生成・離脱しようとする主体化志向の動きと、その動きの作用によって必然的に形成される反作用としてのエス化志向(非主体化)?の動き、この2つのベクトルがあるワケです。<主体を確立しようとするコト><エスへ戻ろうとするコト>ですね。

 三角関係の考察で異性愛に同性愛(友情)が拮抗してしまった、あるいは超えてしまったことにフォーカスした鋭い考察がなされます。異性(愛)に拮抗するものが多種多様に存在するのが現在であり、それは<n個の性>として、あるいは「多重見当識」『戦闘美少女の精神分析 』(ちくま文庫)斎藤環)としてもあるでしょう。

 <恋愛>と<結婚>の違いも、日本におけるその歴史から考察されています。<恋愛>は対幻想の世界ですが、<結婚>はそれを<共同幻想>から認知されなければいけないという点が大きく構造が違います。また共同幻想は第三者でもあり、それを回避しようとする心性は近代日本の特徴でもあるという指摘がされます。

 吉本は1人の男性が友人にも女性にも気持ちを<話せない>で内向していくのが三角関係のベースにあると分析します。問題はその男性が気持ちを話せないことです。するとこの問題は<ひきこもり>や誰もが通過するであろう孤独の焦燥と同質であることがわかります。

 「ぼくが恋愛論の本を出すなんて、初めてのことです」ということですが、結局、人間の原理のすべてに関して書かれています。思想や哲学といった専門用語の羅列とは違ったフィールドで、どの思想や哲学よりも人間の根本を語ってしまっている著者がここにいます。〝人間の人間に対する関係の全てが男の女に対する関係の中にある〟という若きマルクスと同じ認識がここにあります。(彼女のために決闘してこめかみに傷を負ったマルクスの武勇伝は、どこか吉本さんに通じるものがありますね…)

 個別的現存でしかない個人が人類となる契機を一対の男女に見出したマルクス『経済学・哲学草稿』の提起した問題は共同(幻想)化という展開を経て現実を規定していきます。吉本理論がその解のキーであることは読者が確認することでしょう。

           
超恋愛論

著:吉本 隆明
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2009年3月17日 (火)

概観とオリジンな『心とは何か 心的現象論入門』

自信のあらわれとしての『詩人・評論家・作家のための言語論』

 講演をまとめたものであり『心的現象論序説』『心的現象論本論』 の中間に位置するような内容になっています。収録されている8回の講演で心的現象(論)を中心とした吉本理論の全体像がほぼ網羅され把握することができ、ページ構成も人間の発達史に沿った展開でそれぞれ豊富な具体例を示しながら進められています。

 Ⅰ章では発達史の中で〝一人では生きていけない乳児期〟と〝二次性徴を抑圧する前思春期〟から人間だけに特有な過程をフォーカスするところからはじまります。この時の人間に特有の過程がその後の心的現象のすべてを左右するものだからです。そこから言語以前の表出からいわゆる〝言葉〟までが考察され、それが対応する環界との関係も示唆されます。ここまでで初期三部作の内容が凝縮され、さらにはここですでにアフリカ的段階ハイイメージ論のコアな部分が明らかにされてきているともいえます。

 またⅠ章の「異常の分散 母の物語」などは他では示されていないような心的現象を個体として包含する<物語>がどのように形成されるかが心的現象(論)に基づいて解説されています。死という最大のストレスと向き合ったときの人間のレスポンスをキューブラー・ロスの膨大な臨床データから抽出し、人間の心的現象の祖型的なものをクローズアップします。それが感情を媒介係数としてどのような認識を生じさせるのかを発達心理学的な過程における錯合から明らかにし、<概念>や<規範>との統御のバランスの結果として<病的>や<異常>が生じる機序を明かしていきます。

 心的現象からみた吉本理論の全体像が概観でき、しかも重要な面でオリジンなところがある一冊といえます。

           
心とは何か―心的現象論入門

著:吉本 隆明
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       -       -       -

吉本さんをはじめとして多方面に博学強覧なfinalvent氏の極東ブログ。その「[書評]心とは何か(吉本隆明)」にとても参考になるコメントがあります。三木解剖学を踏まえたうえで自他関係の根底にある免疫システムについて取り入れた考察です。

 結局、心とはなにか? 私のがさつな言葉でパラフレーズするのだが、心というものは、脳神経システムと肺という呼吸器システムの相克で生じるものだと理解したい。そして、この相克こそが、私が彼らの思想から私が受け取った部分なのだが、人の心に決定的なダイナミズムを与えている。
 彼らの思想にはないのだが、これに免疫のシステムが関与したとき、人の身心の病的な領域が、人の進化の必然とその途上性の可能性を示すものとして、現れるのだろうと思う。

                       極東ブログの「[書評]心とは何か(吉本隆明)」から

       -       -       -

(2010.10.16追加)

2009年3月 9日 (月)

『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』

『母型論』は系統発生OK

 生まれてから死ぬまでの個体の歴史にそった質疑応答で構成されているのがこの『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ』 。ある種シリアスな質問に対してよりハードな応答になっていて、ハードコアな吉本思想が言明されている。

 

   党派として考えられている
    「ほんとうのこと」は全部だめだ…

                                (P55)

   …母親が「ほんとうのこと」をいうはずがない。
   それが「ほんとうのこと」ですよ。

                                (P47)

 

 いわゆる共同幻想への全否定や、共同幻想の母型になる<母親(との関係)>についてのある種ペシミスティック?な見解でもある。吉本理論の振幅においてもっとも極端な位置でもあるが、それは 共同(幻想)性が個体(幻想)にとって真理であるハズがなく、その絶対に超えられない位相を表現する方法あるいはその指示表出そのものとしての〝こういう表現〟だったと思われる。

 ラカンの鏡像段階とパラノイア理論についてのラジカルな考察と批評、バロウズ!までも取り上げたスノッブ?さも意外な面白さとなっている。質問者サイドの生真面目さにオーダー以上の応答を返す両者のやり取りがこの本の出来を左右しているともいえるだろう。

 ラカンの想像界・象徴界・現実界の三界(論)は乳児・胎児期であればその全部が対幻想の領域にはいるという指摘や、フーコーの権力(論)と視覚(像)との関係、〝ミル・プラトー〟が普遍的でありうる原始的とアジア的の境界についてなど興味がつきない豊富な内容となっている。柳田国男にヒントを得た吉本の思索で「軒遊び」や「外遊び」、「学校」と「遊び」の関係など常に新鮮でユニークでもある吉本理論の可能性があふれている。驚くのは自分の発想を現在どう考えているか?について自問自答する最後だ。ヴェイユや親鸞についての想いは吉本の自己表出であり、読者にとって本書が見事な指示表出であることの分別(の在り処)を探すのも楽しいハズだ。

 マルクスをはじめ自他の理論を縦横無尽にラジカルに語っているが、本書でのスタンスは徹底的に吉本個人の、つまり個体幻想からの語りになっている。吉本理論の全体像がいつもと違った視点から読めるのだ。

           
ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 2,039
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2009年2月24日 (火)

ベーシックな『序説』 その5

 『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」です。〝心像〟には最後のパラグラフで一度だけ「イメージ」とルビがふられています。これまでの他の章と同じように精神病の具体的な症例などから緻密な解析による説明がなされています。
 共同幻想という言葉は有名かもしれませんが、その由来については誰も触れていません。吉本理論でも由来についてはこのⅦ章の数行以外には説明がありません。『共同幻想論』にはさまざまな階程(TPO)の<共同幻想>について緻密な分析が書かれています。しかし<共同幻想>が、ナゼ・ドコに生成するのか?というその由来については説明されていません。共同幻想の生成はこの序説にしか書かれていないのです。たとえばそれが最後の章の最後のパラグラフです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅶ心像論】

P281
…自己妄想は、対象に<投射>されたうえで
自己妄想の世界として引き寄せられるため、
自己妄想が対象と自己とのあいだをボール投げの
繰返しのように往き来することによって、
共同観念の世界の代同物の性格をもつようになる。
そしてこの共同観念に擬せられる性格をもった
自己妄想の世界が、心的な世界と現実的な世界とを
接続する媒介の世界となるとみなすことができる。

 

 Ⅶ章の最後の項目「8引き寄せの世界」の計4頁に満たないうちの2頁目に上記の文があります。これが共同幻想(の代同物)がナゼ・ドコに生成するかをダイレクトに記述した唯一の文かもしれません。
 <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
 <心像>は対象を思念することで現れるが〝病者あるいは病的状態であらわれる<幻覚>〟は〝当人の意志によって左右されることはない〟と<幻覚>と<心像>の違いが説明されます。

 

 認識の位相が<心像><形像><概念>の3つに分けられ、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが説明されます。あらゆる対象がこの3つの認識の位相の統御された構造として把握されて、この把握の仕方、3つの位相の統御のされ方の違いが一般的な認識であったり異常あるいは病的な認識であったりする…ことが解説されています。さらにそこに歴史的な解釈が導入されます。この認識の統御の仕方が未開人と現代人では違うこと指摘されるのです。

 序説発刊の当時、この指摘は特に理解されなかったのではないでしょうか。しかし、この未開人と現代人の認識の相異に関する指摘こそ後の『アフリカ的段階について』のベースであり、この認識の方法、つまり個体発生とその成長に応じた認識統御の変化を未開人と現代人で比較するそれは、個体発生は系統発生を繰り返すとした三木解剖学に先駆けたものであることがわかります。『心的現象論序説』の最後の章に、その後のすべてがあらかじめ結実していた事実が驚異的な吉本理論の射程と一貫性を示しています。

2009年2月20日 (金)

ベーシックな『序説』 その4

 『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」では<入眠>時の心的な現象である<夢>が考察されますが、それは世界にまったく比類のないオリジナルな理論になっています。
 夢に関してはたいていフロイトによる夢判断のように夢に出てきた形象で夢の意味を問うものや、夢の内容を現実の(心理の)隠喩や換喩として捉えれるものが大部分です。それ以外はないといってもいいかもしれません。しかし、吉本理論における<夢>への考察はまったく違います。変幻自在で不定形でもあるような<夢>を厳密な認識の時空間構造として把握しています。そこでは<原関係><固有関係><一般関係>や<原了解>などの基礎概念が幻想論と対応しながら展開されています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅵ心的現象としての夢】

P188
夢が形像のかたちでやってきても(上限夢)、
非形像のかたちでやってきても(下限夢)、
あらわれる夢表現に対して<入眠>時の心的な領域は
一義的な対応をもたない…

なぜならば、
対象が<身体>の外部に実在しないことから、
心的な受容の空間化度は、
それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、
無定形な空間化度にすぎなくなる…

P189
夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とは
まったく関係がない…
記憶残像が再現されるのでもない。

夢の形像は、眠りによって条件づけられた
心的な受容の空間化度が消失し、
心的な了解の時間化度が変容することから
直接に必然的にやってきたものである。
つまり、意識が対象を受容し了解するという構造を
もちえないところから、
必然的に与えられたものが夢の形像であって、
いかなる意味でも視覚像ではありえない。


 ある意味でこのⅥ章がいちばん吉本理論の典型であり、また吉本理論が解りやすいかもしれません。夢は〝対象が<身体>の外部に実在しない〟から〝無定形な空間化度にすぎなくなる〟というシンプルでストレートな定義からはじまります。

意識が対象を受容し了解するという構造をもちえないところから、必然的に与えられたものが夢の形像〟であるという説明は序説における認識論をすべて語っているようなおもむきがあります。

 〝対象〟を〝受容〟し〝了解〟するのが基本的な認識の〝構造〟で、そのすべての段階に<時空間構造>があり、そして認識の順番と過程そのものにも時空間構造がある…というのが『心的現象論序説』で示されてきたことそのものです。それが感官(感覚器官)が対象を認識する構造です。感官は常にこの構造において環界を認識しています。
 ところが夢では〝対象が<身体>の外部に実在しない〟つまり感官が受容する対象というものが存在しません。感官が機能する段階である環界との接触がないわけです。夢では感官レベルでの認識はないことになります。夢はいきなり〝了解する〟ところ(対象外・意識外のもの)からはじまるわけです。
 了解のレベルには了解の時空間構造があります。夢では(感官の)対象がなく対象のレベルの時空間構造がないために、この了解の時空間構造がその代わりになります。それが<夢>の属性です。〝無定形な空間化度〟による〝形象〟になるわけです。

 

 夢の形象が〝対象〟ではなく了解の時空間構造そのものによるということは、夢という認識は認識の再帰性(自己言及性)に負うものであることがわかります。
 そのために〝いかなる意味でも視覚像ではありえない〟のであり、よくある夢への解釈や想像や直観、イメージというものへのアバウトが見解が、ほとんどすべて無効であることがわかります。吉本理論のすさまじい破壊力がここにあります。

 いきなり共同幻想との関係でいえば、共同幻想が自己言及できない部分をカバーする(タネにする)認識だとすると、夢は自己言及そのものである、といえるかもしれません。

2009年2月15日 (日)

ベーシックな『序説』 その2

 『心的現象論序説』のⅢ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」では基礎となる概念構築、了解作用の遠隔化とその動因が考察されています。吉本理論の原理論であり現象学やフロイトへの厳密な考察から理論が生成していく瞬間でもあるでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情

 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅲ心的世界の動態化】

P93
心的な領域を原生的疎外の領域とみなす
わたしたちのかんがえからは、
ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは

区別されない。

心的現象の質的な差異、
たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
ただ時間化度、空間化度の量的な差異と

その錯合構造にしか還元されない…

 

 時空間概念という理系文系を超えた究極の概念を駆使した心的現象へのアプローチが宣言され、ヘーゲル小論理学のような明解でゆるぎない理論の基礎づけを目指した論考であることがわかります。〝個体の幻想性についての一般理論が確定されれば、個々の具体的な人間がしめす心的現象を了解し、予見しうるはずだ、という観点にたっている〟この『序説』の可能性はすさまじい破壊力をともなって展開されることになります。

 <原生的疎外>とその<ベクトル変容>である<純粋疎外>というオリジナルで基本的な原理と概念が示されます。純粋疎外の時空間化度として<固有時間性><固有空間性>が設定され、現象学的還元が排除するものの背理として〝現実的環界の対象も、自然体としての<身体>もけっして排除しない〟時空間の〝錯合という異質化した構造〟である<純粋疎外>が提出されます。ここでは現象学の〝超越者〟への指向(嗜好?)は消滅しています。

 感覚作用を〝それぞれに固有の空間化度〟と〝生理体としての<身体>の時間化度〟による受容とみなし、それが微分されます。そして<一次対応>という<了解>の基礎が設定され、そこからの離脱(の度合)が異常や病気(のスケール)となることが説明されます。これらはハイデガーやベルグソンの時間や空間への概念設定とも比較検討されていきますが、後半の具体的な症例への分析をとおして例証されていく過程は現在まで続くスタイルでもあり説得力があります。

 

【Ⅳ心的現象としての感情】

P131
たんに眼のまえの存在にたいしてだけではなく、
遠隔の対象についても<感情>をもつことができる
にもかかわらず<感情>の対象は、

遠隔性でありえないことは、
<感情>にとってもっとも本来的な性質である。

 

 心理学でも哲学でも脳神経学でももっとも困難な<感情>(の定義)というものが、もっとも吉本理論らしく時空間概念によってクールに解析され提示されています。
 心的現象の中で感情が特別なのは、感覚には〝対象そのものを指す志向性〟がありますが、感情は〝対象についての心的な状態を、本来の対象とする〟からです。つまり感情は再帰(性)や自己言及(性)の典型でありループしている心的現象そのものといえるもの。

 しかも〝<感情>の作用は、対象自体がどういうものかとはかかわらない〟ということで、たとえば<好き・きらい>のような判断さえ両価性でしかなく、〝<感情>は〟〝心的な時間性の<空間>化〟という〝中性〟の〝強度に転化する〟ことが〝本質〟だとされます。
 また〝了解作用〟が〝<時間性>が介在すべきであるにもかかわらず〟〝心的空間性の領域としてだけやってくる〟〝本来的な矛盾〟とも定義されています。(これらの感情についての思索は時間(性)以前の状態である<エス>を念頭においたものではないかと考えられます。)

 後半で分裂病の少女ルネなど感情の障害をともなう症例への考察があり、〝<接触>の構造〟が問題とされます。ベースに〝臨界的である〟〝人間と人間との<接触>〟を置き、そこから遠隔化していく動因として(の)<感情>(の必然)が考察されます。
 ここで<臨界的な接触>というのは後に有名になる<対幻想>の属性のこと。この数ページに<共同幻想>から<アフリカ的段階>までの機序と必然が、はじめて現れます。それは〝<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働き〟への考察から生まれたものだといえます。

2009年2月13日 (金)

ベーシックな『序説』 その1

 『心的現象論序説』のⅠ章Ⅱ章は考察の基本的な方法とスタイルで、Ⅲ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」は吉本理論の根幹をなす部分です。Ⅴ章「心的現象としての発語および失語」Ⅶ章「心像論」はそれぞれ『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』の基礎づけになっています。

 『心的現象論序説』には「対幻想」も「共同幻想」もでてきません。代わりに<幻想対>や<幻想的共同性><共同観念><一般了解>という言葉がでてきます。また「自己表出」「指示表出」という言葉もでてきません。<自己表現としての言語><規範としての言語>など説明文が多く登場しています。
 『共同幻想』『言語美』は具体的な題材を解剖するかたちで理論が構築されていきますが、この『序説』では基礎概念のレベルで徹底的な考察と解説がされており〝言語〟も〝共同性〟もラジカルに理解できるように書かれています。『心的現象論本論』ではさらに多くの個別的な題材から微細な解剖をとおして原理が示されていきます。『序説』は理念的に完結しうるもとして完成度が高いものです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか

 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅰ心的世界の叙述】

P10)
わたしのかんがえでは
マルクスの知見のうちもっともすぐれており、
もっとも貴重なのはかれがその体系のうちに
観念の運動についての
弁証法を保存していることにある。

 

 心理学や哲学、現象学というジャンルを超えて心について考察することが宣言がされています。心は身体や環界に依拠しますが絶対にそこに還元はできません。この困難で複雑な状態を自明のものとして心的現象への探究がはじまります。

 〝わたしが<視る>とき、それは<構造>としてみており、対象はその個体に固有の<構造(時空間構造)>に変えられて受容される〟…という意味の説明(P13)があります。

 この{個体に固有の<構造>}というのは人間にはそれぞれ個体ごとにその人固有の認識構造(認識の仕方)があり、各人で少しづつ異なっていて、それが個人の特徴(個性)になっていることを示しています。
 この<個体ごとの特徴>や、<個体と個体の差異>あるいは<個体と公準(共同体の)の差異>にフォーカスして心的現象論は展開されています。この<差異>こそが<性格>をはじめとして<異常><病気>まで包含するものであり、吉本理論の言語論としてであれば<自己表出>に対応するものです。もし、たとえば個体相互にまったく差異がなく同じ(ような)属性であるとすれば、それはコンピュータや動物が並んでいるようなもので全面的な指示表出(だけ)の世界となります。

 

【Ⅱ心的世界をどうとらえるか】

P46)
もし量子生物学の発展が、生理的なメカニスムを
すべて微視的にとらえうるようになったとき、
心的現象は生理的現象によって了解可能となるか?
もちろんこれにたいする答えは<否>である。
ただし、不可知論的な否ではなく構造的に否である。

 

 その理由として〝生物体としての人間が、細胞の確率的な動きのメカニスムを把握しうるとき、心的な存在としての人間は、すでに<把握しうる>ことをも把握しうる冪乗(累乗)された心的領域を累加している〟という構造にあることを指摘。

 この〝構造的に否である〟は定理としては<自己言及のパラッドクス>や<ゲーデルの不完全性定理><チューリングの停止性問題>(の示すもの)と同じす。(こういった見解を示せる可能性がニューアカ以降にありましたが誰も何も示せませんでした。)

 これは個体という<入れ子>構造における<再帰(性)>が人間だけのものであることを示しています。あるいは<再帰(性)>を<入れ子>構造の前提と(して定義)したともいえます。

 〝観念の働き〟は〝人間の<身体>と現実的な環界〟〝この二つの関数〟(P49)であり、その〝心的な領域をささえる基軸〟として<身体>と<環界>の両方から疎外された<構造>であることが仮説として提出されます。イデオロギーへのアンチとして登場した身体論や身体図といったものや後の三木解剖学の前段といえる思索がここにあります。

2009年1月12日 (月)

リスペクト!『心的現象論序説』

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■宣伝『心的現象論序説』つーかねえ・・・   2004/4/7</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 『心的現象論序説』の宣伝・プロパガンダ?です。
 吉本理論の原理論でありながら絶版?になっている『心的現象論序説』。未刊行の心的現象論の「本論」と絶版の「序説」を合わせて豪華本『心的現象論』がでましたがオンデマンド本?&豪華本ということで大変な高価なものになってます。吉本隆明の最強資料集を構築しつつある猫々堂さんの「吉本隆明資料集」からは「本論」が分冊ででています。

  フロイトとマルクスと、オートポイエーシスの心的システム論などをも参考にすると難解で有名なこの『心的現象論序説』を理解するにはプラスですが、ソシュールもラカンも紹介されてない38年も前に、これだけの思索をした吉本さんの驚異的な能力にリスペクト!です。

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 ある意味で『心的現象論序説』はフロイトの理論をマルクスの疎外概念で再把握し、自己組織論的な位相概念を導入したものです。
 フロイトへの緻密な孝察は、フロイトを批判する各種の言説へのスルドイ検討をともなっていて、その過程で実存主義や現象学へのラジカルな批判もなされています。それ以外の理論展開でも、ベルグソン、ハイデガー、フッサール、Mポンティといった思考の原理に迫るいくつもの思想への鋭利で深い洞察がなされ、ジャンルやカテゴリーを超えた理論が展開されています。

 現存在でしかない個体への身体理論的なアプローチや、心が生成する時のフロイト的な着想心を表出させる時ソシュールやチョムスキーを先取りする視点、統御されつつ変化する個体のシステム論的な孝察、倫理や宗教の原点をフォーカスする原理的な思考の射程....。

 カテゴリーを超えた人間の原理論としてこそ評価されるべき内容が『心的現象論序説』にあります。

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心的現象論序説 改訂新版

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 479
価格:¥ 479

   

(2004/4/7~)
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