キャラウエイ番外
構築することへの過剰な羞恥心のために壊している見掛けをなくさないで、
ひそかに(構築)する方法が『さようなら、ギャングたち』からはじまるこの作家の特質をつくってきた。
たった一人の読者からこう批評された作家の気持ちはどんなものだろう?
それはすべての批評を無力感に叩き込んだ作家が真っ赤になって彼女の感想を聞くようなものかもしれない。
たった一人の詩人を読者に書かれたのが「さようなら、ギャングたち」
ギャングたちはたぶん批評を殺し、思想を盛り上げ、読者を生き返らせた。
そんな風に覚えてる、「さようなら、ギャングたち」
『さようなら、ギャングたち』…Amazonのたくさんのレビューから可視化されているものが興味深い。要は自分にとって分からないものには否定的というありがちなスタンスと、理解できなくても感性的に受容できたらそこからスタートというもの。後者が世界の解決であることは当然。村上春樹の大衆レベルでの流行とそれを理解も支持もしない知識人とのギャップというアジアでの問題は、日本でもこの作品でも露呈しているということが意味しているものは…
☆
-------------------------------------
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。
消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。
象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。
本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。
動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>に可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。
「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?
http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2017/06/post-5d8a.html
-------------------------------------
最近のコメント