<貧弱な共同社会>が生む共同幻想
共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。
(『共同幻想論』禁制論P64)
共同幻想の「ほんとうの生み手は、貧弱な社会そのものだとすれば、探究すべきは「貧弱な社会そのもの」になります。
マルクスは資本論で下部構造=モノを媒介とした関係を思索しましたが、下部構造の上部構造への影響を絶対とはしていません。ある頃からは上下の構造のカップリングとしてみることも一案にすぎないとしているようです。(「共同幻想論」では共同幻想はマルクスの上部構造のことだと説明されていますが・・・)
では、この<貧弱な社会>とはどのようなものなのでしょう。
何が<貧弱>なのでしょうか?
この<社会>は上部構造なのでしょうか?
それともモノを媒介とした社会として下部構造的なものなのでしょうか?
社会はモノを媒介とした関係ですが、モノを認知するのも関係を認識するのも個人の心であることには変わりありません。そして認識において規範となるものや反復されるものはモノと同じように感受されます。簡単にいえば、人間が働きかけて変化させない限りは不変のものとして感受される(モノは規範であり反復されるものであり)ということであり、現実には感受している実感さえない(象徴界のように)ものです。
<モノ>にはそういった意味合いが込められています。人間はそれらを意識することなくそれらに支配されている…といえるものです。
<モノ>が意味するのは<不変>の関係になります。
逆にいえば不変の関係=変わらない関係はモノであり、モノとの関係と同じだといえます。その都度認識する必要のない、いつも変わらない関係です。
感覚は絶えず機能していて、時間の経過とともに変化する環界を感受しています。環界の急激な変化に個体が気がつかない場合、大きな危険にさらされる可能性があるからです。
逆に変化のない関係であれば、いつも同じような関係に対して同じような対応をすればいいコトになます。この同じような対応の仕方を固定させたものが<規範>です。
さまざまな経験による認識は<概念>としてストックされ、反復する認識は<規範>として認識のフレームを形成します。
この概念と規範が同致したものにつけられたタグが<言語>になります。
規範が優位なままに生成する認識のクラスターやレイヤーは共同性といえるかもしれません。あるいは規範に無意識のまま組み込まれるものに共同性としてのニュアンスがあるのかもしれません。 意識できないもの、あるいは意識を規定してしまうものとしての共同性や象徴界的なもの…。
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