<共同幻想>を生む禁制と自己言及
共同幻想は何らかの禁制(Tabu)を前提としますが、禁制の対象は個体の意識のなかで措定されているハズです。
この措定する意識も自己の意識なので、対象化するということそれ自体で意識×意識(自己言及性)が前提となっています。心的現象論序説で示唆されているように<観念のべき乗化>です。共同幻想は自己言及や再帰性を前提として生成するものです。
ある事象が、事物であっても、思想であっても、
人格であっても禁制の対象であるためには、
対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。
そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。
かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、
かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。
(『共同幻想論』禁制論P46)
個体のあらゆる認識が統覚からみて自己言及である(orでしかない)ということは、入れ子構造を仮構することで安定が担保されています(この自己言及をひとつの単位とし、そのアトラクタブルな領域をひとつの入れ子構造と想定できます)。
自己言及による不確定領域は仮に空間性を代入することで安定しますが、それは仮定(or過程)であり絶えず更新され続けています。
この更新をせまるものが「身体組織としての生理的な自然そのもの」であり心的現象論序説でいう<身体の時間性>です。
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じぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、
対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。
そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。
(『共同幻想論』禁制論P46~47)
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吉本式にいえば原生的疎外が純粋疎外に絶えず是正を迫っているともいえるもの。
「意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」ために、その歪みを是正する必要がある…のであり、同時にその是正への抵抗としても生は意味づけられていくものだと考えられます。
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