対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>
対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…
…というのが現象学の要諦だとされています。
それは主体-客体に代表される二元(論)的な発想をブレークスルーするための画期的な方法でもあったのだと、それらについて『心的現象論本論』(P30)では「この種の現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と結論しています。欧米思想にとって「有効」であり、しかもそれは「遁走」だというところに、いつもの臨界を極めていく鋭利な思索があるようです。
考えてみると、ここには2つ以上の?があり、それそのものが「有効」であるというレベルと「遁走」であることの理由を示してもいます。
大きな問題は「不変」が「本質」であるという誤解と、「本質」が「直観」できるという錯誤の2つ。
心的現象論本論
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「本質」というものについてはヘーゲル以来のあるいは哲学全体の思索があり、「直観」についてはすでに『心的現象論序説』で解体されてもいます…。悟性や理性の定義をしない(できない)で論を進めている多くのナントカ学の無効が宣言される一説なのかもしれません。もちろん古典という形容で免罪されるものは吉本の思索にはないでしょう。
心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。
心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…
(『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93)
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対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…
「想像に左右されないで不変なもの」が「本質直観である」というのは、
「本質直観」は「想像に左右されないで不変なもの」ともいえます。
…つまり、そういったものを探せばいいワケです。
対象認識をするときに想像に左右されないものといえば、
たとえば、
対象認識をするときも想像するときも不変的もの…
それは、突き詰めれば対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>になります。
心的現象論の読者には基礎知識でしかないことですが、哲学をはじめさまざまな思索が自己言及の不可能性ゆえにアンタッチャブルのままきたものがここにあります。少なくともポストモダンやニューアカや自己言及というものがブレークスルーすべきものであることは見出していました。その後の沈黙は方法が見当たらないためであり、ターゲットが把握できなかったわけではないと思われます。
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