先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想
先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。
逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)
マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。
ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。
この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデューやトッド、阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。
マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。
<先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。
これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
それが心的現象論のモチーフになります。
『心的現象論序説』から…
<精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。
(「Ⅰ心的世界の叙述」P45)
人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
異なった位相の世界として存在している。
(「Ⅰ心的世界の叙述」P45)
生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…
(「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)
人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
生活史と精神史との歴史的な累積を、
心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。
(「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)
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