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2016年8月13日 (土)

純粋疎外…何も引かない、何も足さない

 科学はさまざまな具体的な現実から抽象された見解だ。この具体と抽象のギャップにはリスクのシーズとなるものがある。捨象するものが多いほど、その見解(理論)と現実のギャップは大きく、理論オタクだけがヨロコブような机上の空論と化してしまう。

 吉本はマルクスの<組み込み>概念とラカンの<シニフィアン>を同じスタンスから批判している。これはある意味でラジカルな科学批判だ。どちらも“自然ではない”という疑問になっている。
 まったく別の言い方をすれば“考えられたものは、自然そのものではない”と指摘されていることになる。<知>は<自然>そのものではないからだ。


   純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、
   環界としての現実をも、生理的基盤としての<身体>をもすこしも排除していない。
   また、どのような還元をも行っていない。

                     (『心的現象論序説』「Ⅲ.心的世界の動態化」P106)

 科学から現象学までもが思索されていくなかで純粋疎外が説明されている。
 <現実>と<身体>をすこしも排除していないのが、その特徴だ。原生的疎外から何も引かないし何も足さないし、何も還元しないという方法としての純粋疎外。
 それは、ただ<在るコト>が<居るコト>になるベクトル変容として定義されている。原生的疎外に(は)ベキ乗化する観念の変数がかけられるだけなのだ。

 初源の変数はとりあえずゼロといえるだろう。
 原理的にはシンプルな関数としての観念がここにある。

   実在することが疑えないのは、
   いまのところ人間の<身体>と現実的な環界だけであり、
   観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だといえることだけである。

              (『心的現象論序説』「Ⅱ.心的世界をどうとらえるか」P49)

 この関数がトポロジカルにはベクトル変容なのだ。


   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

      (『心的現象論序説』「Ⅴ.心的現象としての発語および失語」P168)

 もっとも抽象度の高い数理さえ「自然認知の程度にしたがう」とするところに、人間さえ自然であるとするマルクスからの基本的な認識があるのだろう。ちなみにマルクスは数学の本も書いているが…。
 マルクスの「組み込み」は自然の部分的な人為化だが、吉本には自然の全的な人為化と人間の自然化が相互に自在に転換するものとして把握されていそうだ。それは人間と自然が不可分である現実世界そのものでもある。それは、あらゆる方向への展開が秘められたゼロ地点になるのだろう。言語の自由のために場所を捨象するデリダとは真反対のアプローチだ。
 吉本にとっては世界そのものがゼロなのであり、それは、あらゆる可能性とそのスタートをも示しているハズなのだ。

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