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2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
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 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

2016年8月13日 (土)

純粋疎外…何も引かない、何も足さない

 科学はさまざまな具体的な現実から抽象された見解だ。この具体と抽象のギャップにはリスクのシーズとなるものがある。捨象するものが多いほど、その見解(理論)と現実のギャップは大きく、理論オタクだけがヨロコブような机上の空論と化してしまう。

 吉本はマルクスの<組み込み>概念とラカンの<シニフィアン>を同じスタンスから批判している。これはある意味でラジカルな科学批判だ。どちらも“自然ではない”という疑問になっている。
 まったく別の言い方をすれば“考えられたものは、自然そのものではない”と指摘されていることになる。<知>は<自然>そのものではないからだ。


   純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、
   環界としての現実をも、生理的基盤としての<身体>をもすこしも排除していない。
   また、どのような還元をも行っていない。

                     (『心的現象論序説』「Ⅲ.心的世界の動態化」P106)

 科学から現象学までもが思索されていくなかで純粋疎外が説明されている。
 <現実>と<身体>をすこしも排除していないのが、その特徴だ。原生的疎外から何も引かないし何も足さないし、何も還元しないという方法としての純粋疎外。
 それは、ただ<在るコト>が<居るコト>になるベクトル変容として定義されている。原生的疎外に(は)ベキ乗化する観念の変数がかけられるだけなのだ。

 初源の変数はとりあえずゼロといえるだろう。
 原理的にはシンプルな関数としての観念がここにある。

   実在することが疑えないのは、
   いまのところ人間の<身体>と現実的な環界だけであり、
   観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だといえることだけである。

              (『心的現象論序説』「Ⅱ.心的世界をどうとらえるか」P49)

 この関数がトポロジカルにはベクトル変容なのだ。


   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

      (『心的現象論序説』「Ⅴ.心的現象としての発語および失語」P168)

 もっとも抽象度の高い数理さえ「自然認知の程度にしたがう」とするところに、人間さえ自然であるとするマルクスからの基本的な認識があるのだろう。ちなみにマルクスは数学の本も書いているが…。
 マルクスの「組み込み」は自然の部分的な人為化だが、吉本には自然の全的な人為化と人間の自然化が相互に自在に転換するものとして把握されていそうだ。それは人間と自然が不可分である現実世界そのものでもある。それは、あらゆる方向への展開が秘められたゼロ地点になるのだろう。言語の自由のために場所を捨象するデリダとは真反対のアプローチだ。
 吉本にとっては世界そのものがゼロなのであり、それは、あらゆる可能性とそのスタートをも示しているハズなのだ。

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