<世界視線>…可能性の視線として
可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だ。
たとえば景色の中に白い○があるとする。この景色に関する周辺知識や予備知識がなければ、この白い○が何であるかはわからない。白い○の不可知さゆえに、それはUFOに見えるかもしれないし、遠方のガスタンクか何かかもしれない。あるいは気象観測器かもしれないし、制作途中の変わった広告看板なのかもしれない。この対象を眼前にしながら判然としない状態が純粋疎外なのだ。
認識する対象の形態や、あるいは認識にともなう知見が予めには何もない状態…このような状態での認識は、予めの形態も知見もないために、そこに連合し得るあらゆる観念が錯綜してしまう可能性をもっている。別のいい方をすれば、逆に、そこではあらゆる認識が可能な状態なのだ、ともいえる。その可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だった。それは共同幻想を見る、その視線のことだ。
人が空を飛べない時代に描かれたナスカの地上絵を可能にした眼差しも、世界視線だ。臨死体験にデジャブ、予兆予見…あらゆるものを見てしまう視線としての可能性。人間はあらゆるものを解決するとしたマルクスのように、あらゆるものを見ることができるという確信がここにはありそうだ。全面肯定の思想ともいわれる吉本隆明は、そこに人間の、世界の可能性を見出していた。その<世界視線>は<純粋疎外>を前提にあるいは契機に生成するものだ、ということを吉本は膨大なエグザンプルを取り上げながら繰り返し書き続けている。
世界視線という問題は、視覚の対象とそれ以外が視覚認識の過程でどのように峻別され、あるいは統合されているのか?という問題であり、これこそ<純粋疎外>が援用されるべき典型的な問題になるだろう。つまり、視覚でいえば<純粋視覚>が指し示すとともに解となるものであり、それは視覚に関連するあらゆる対象を包含する可能性になるのだ。だからこそ、そこを起点にする認識のあらゆる問題をカバーすることができる。あたかも、数理におけるゼロやアスタリスク、トランプのジョーカーに、あらゆるものが代入できるように、だ。(直裁には認識不可能な領域に代入されるあらゆるものは、そのまま共同性となりうるもので、これが共同幻想のシーズだ。ラカンの象徴界もこれに相同といえる)
こういった問題に<純粋疎外>概念は明確な根拠を与えることができる。それは<わからないモノゴト>を{<わからないモノゴト>そのもの}として定義できるダイナミクスなのだ。数理哲学では<無いコト>を現すために、自然数にゼロという概念が導入された。そうした<無いコト>の明白化(あるいは可視化といってもいい)が、<有るコト>だけで成り立っていた自然数だけの思准を飛躍的な発展させた。<純粋疎外>も同様に、定義できないこと、把握できないことを可視化あるいは有化し、対象化したのだ。純粋疎外はあらゆるものを思索の対象にすることを可能にした。
そして世界視線はあらゆるものを視ることを可能にした。国家も、ゴーストも、クオリアも自在に視ることができる。その機序は共同幻想論であきらかだが、最大の特長は自分を視ることができること。自己客体視であり、それは、ある意味で、自分を外から視ているのであり、デジャブや臨死体験としても知られている。
あらゆる可能性を数理において約束したのが<ゼロ>という概念だったように、吉本は<ゼロ>を認識の基本に据えているといえる。
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