<共同幻想>…第一章「禁制論」での柳田国男
ポトラッチ族の贈与のシステムから「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念を駆使して「信用」まで関連づけ、未開社会の贈与のシステムから現代に続くまでの資本(主義)の変遷や関係を語れるかのようなスタンスと可能性が、モースやマリウノスキーにはあるのかもしれない。
そうやって世界のすべてを観察するかのような西欧のスタンスと概念からは、世界のすべてがそう観えるだろう。ただし西欧式に…。そこでは既存の知識と概念を基礎に置いた思索が巡らされ、「初めに言葉あり」に代表され象徴される世界観が展開される…。もちろんそれではホントの世界や社会や国家を把握しきることが出来ないことを、吉本隆明はさり気なく、しかし執拗に繰り返し指摘する…<日本は壊れている>という指摘はアイロニカルでしかもダイレクトな、そういった事実への表現として貴重な指摘になるのだろう。正確には西欧的なスタンスからは日本は壊れて観える…というイロニーなのだ。
「強制」や「義務」「権利」といった概念装置で未開の部族や民族を明瞭に分析することが出来るだろう。問題は簡単で、そうやって明晰に思索されるとき、明晰でないにものはどう扱われ、どう処理されるのだろうか?…ということだ。
あっさり語れることによって語れないものが抜け落ちてしまうことを指摘する。たとえばそれは<神威>について。母系社会の特徴である<父>を崇敬する理由は、欧米概念で贈与を微分したところで見出すことはできない。「権利」「義務」「強制」という概念でポトラッチを語ってしまうモースに欧米知の限界を指摘するのが吉本隆明の『母型論』だ。そこでは母系社会の成立と(その現代への)継続の意味が問われていく…。
もちろん、この語れないものというモチーフこそ共同幻想論から始まり、その思索の全段そのものであったのが吉本隆明の思想だろう。
母型論
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現代的にはモースらが指摘する「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念で現在の金融資本主義の「信用」までは説明できる。だが「バブル」にはタッチさえできない。100年に一度といわれるバブルとその崩壊が数年ごとに起こっているその事実だけで、ほとんどの経済言説が無効だということはシロウトの方がよく分かっているのだろう。
<父>を崇敬し、母系の全勢力をかたむけて贈与される、その理由は何か? この問いは、心的現象論的には<父>のイメージを拡散増大(異常の拡散)させればとりあえずの直接的な答えに近づくことが可能だ。<バブル>とは何かへ向 かっての無限の贈与でもあり、現代ではその崩壊は凸した分だけ凹む現象にすぎないことがコメンテーターレベルでの指摘でも明らかだ(たとえばホリエモ ン)。真面目な吉本隆明は、それを『母型論』の「定義論Ⅱ」で説明してみせた。そこからは、すでに大衆がすべてを握った、何も心配しなくていい遠くはない未来が見渡されている。すくなくとも楽観することは禁じられていない。
*ホントは4分の3あるいは半分まで縮小しても生活水準を落とす必要がない日本の経済
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…現実にありうべくもない語り伝えから成り立っているとすれば、
それを伝承する語り手も空想癖のつよい人物でなければ、語りのリアリティは保存されな い。
…
語り手の空想癖が民話の根源にある共同的な幻想にもどっていくとき、
伝承という心的な転移が成就される。
語り手の夢が、語られた山人譚とパターンをおなじくしているとき、
このパターンのなかに共同的な幻想の本質がよこたわっている。
入眠幻覚のなかで『遠野物語』の語り手が娘の死をかなしんでたどろうとしたのは、
村落共同体を支配する禁制の幻想であった。しかし柳田国男はそうかんがえなかった。
かれは、むしろタイラーやフレーザーがはっきりと分類した高地崇拝や呪術の原始的な心性をこれに結びつけたのである。(『共同幻想論』「禁制論」P62)
モースやマリウノスキーが「強制」「義務」「権利」といった概念装置から贈与の社会システムを語ろうとしたように、柳田国男はタイラーやフレーザーの用意した知見から語り、禁制の幻想を観ようとしなかった。その、観ようとしない・観ることができないという禁制そのものがターゲットであることが不可視にされてしまう…そこにホントの意味での禁制があることを『共同幻想論』は第一章から繰り返し指摘し続けている。そしてそれは、吉本隆明の思想的営為のスタートから未帰還までをつらぬいている。
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