認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想
認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。
(『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
(下條信輔・講談社現代新書)P219~220)
自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
まちがいなさそうです。
多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。
しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
意識の成立に決定的に関与することを、
最近の発達心理学の研究が示しています。
(『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
(下條信輔・講談社現代新書)P159)
この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。
自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。
「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)
もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。
他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…
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コメント
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貴方の対幻想とその近縁部を追求していく観点に共感を覚えます。
最近少し分かったように思えて表明したいことがあって書きます。
吉本さんにとって、対幻想は共同幻想、個人幻想の領域とは格段に異なる(価値の高い)位置を与えられているのではないかということ。
ありていに極端に言うと、個人幻想も共同幻想も、人間や歴史のはざまにあだ花的に生成してきたものではないかということさえいえると。
それに対し、対幻想は物のレベルを離れても確かさを失わない自己表出の言語のように、大衆の原像という概念を保証すると。
65歳 男
投稿: shige | 2016年8月29日 (月) 14時21分
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、対幻想は価値というものを産出する要だと思います。
具体的にいうと、対幻想を充当することが価値…だと思います。
そして対幻想に関する思いが自己表出というものだと思います。
母子不可分であり自他不可分である状態から通常のコミュニケーションまでの間に内コミュニケーションがありますが、内コミュニケーションは対幻想を充足させるものでもあり、そこには生そのものの姿がある気がします。
自己内対話から一般的なコミュニケーション、他者との関連まで、その基本には対幻想があるんですよね。
投稿: 独解 | 2016年9月27日 (火) 11時56分
コメントについてのご感想いただきうれしいです。
私のは、吉本さんの作られた概念とかイメージとかの中で、突出して強い吸引力というか変更力的な作用を受けてきたものを論理的なつながりをたどらず、山頂だけを取りだしたようなものでした。
それに対し貴方のご理解は、それらの頂点が、なるほどなと感じさせる連係の中に位置づけされて、私にも新たな小庭で思索を巡らせていくきっかけになりそうです。
とりわけ「対幻想を充当する」価値、自己表出、というご理解は私のつたない考えのまっすぐ向こうにあるように感じた次第です。
今後ともご教示を勝手に受けさせていただきたいと存じます。
投稿: shige | 2016年10月 7日 (金) 09時11分