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2016年5月20日 (金)

<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 <共同幻想>という言葉は知らない者がいないほど有名です。
 そして不思議なことに、その理解者はその言葉の有名さに反比例して、あるいは吉本式にいえば逆立して少ないのかもしれません。その理由が<ゼロ>にあります…。1から9までの自然数をいくら駆使しても、0(ゼロ)が導入された数理の考察に及ぶことはありません。吉本隆明はその<ゼロ>を思索の中心に据えて、ほぼ全理論を構築しています。初期3部作といわれる「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論序説」から超高度消費社会を資本論の援用で締めくくったハイイメージ論まで、駆使されている概念装置は<ゼロ>なのです。

 もちろん<ゼロ>と表記された概念が行使されているのではありません。あらゆるものに共同幻想がまとわりつくように、<ゼロ>の概念はさまざまな言い方をされています。たとえば共同幻想の代表的なものとして国家があり、社会も会社も、村落も、町内会も知人友人の仲間内の関係にも共同幻想は発現しています。直裁には吉本自らが共同幻想とはマルクスの「上部構造」のことだと説明しているほど、その対象は広く普遍的であり、それだからこそ共同幻想は問われる価値があるのでしょう。共同幻想はあらゆる事象で問われる普遍性そのものといえるほどのもの。同じように<ゼロ>もあまねく存在する事象であり、想定される状態を指しています。それは数理における<ゼロ>そのもののようにであり、ある意味でそのものなのです。


 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。


 吉本隆明の幻想論は幻想の3つの位相に関する考察ですが、逆に社会的事象も個人的な何事かも、この3つの位相に微分?して解析すれば、それなりの解を見つけることができるでしょう。マルクスが欧米の国家をそれぞれの政治と社会の発展成長の度合いの違いから考察した視点は、この吉本の幻想論とパラレルな印象があります。ユダヤ人がそれぞれの国家でどのような問題となっているかというマルクスの論考がそれ。国家と宗教の分離の度合いによってユダヤ人の扱われ方が異なり、つまり機能(政治)と心理(信仰)の分離の度合によって、ユダヤ人がどう見えるか、どう感じられるかが異なってくるということを論証したもの。いわゆる「ユダヤ人問題」です。この時、機能と心理が不可分になり、ひとつのイメージとしてしか感じられない段階や瞬間が想定できます。それが純粋疎外の状態、つまり<ゼロ>です。後で説明しますが個体の認識でいえば「環境と認知の問題」であり、それが不可分になる瞬間のこと。そこには<時点ゼロの双数性>が想定できるでしょう。

2016年5月 6日 (金)

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

   認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
   意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
   これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P219~220)

   自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
   それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
   そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
   まちがいなさそうです。

   多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
   といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。

   しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
   つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
   知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
   他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
   「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
   意識の成立に決定的に関与することを、
   最近の発達心理学の研究が示しています。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P159)


 この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
 少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。

 

 自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』


 「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

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