ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明
ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。
たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。
見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。
この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…。
つまり対象がなくても「見える」ようになります。
この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。
乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。
共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。
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