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2016年2月21日 (日)

世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ

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<身体>とシンクロする=ゼロ

 神経生理の閾値である最低刺激量から離脱するほど高度な時間性(つまり観念性が高いこと)であることとともに、<身体>の時間性により心的現象が統括されていることが心的現象論序説で示されているが、本論の方ではそのより根源的な了解の構造の基礎が説明されていく…。

   いっさいの了解の系は<身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
   いっさいの関係づけの系は<身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を
   獲得するようになる。

            (『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

 そして心的現象論の序説や本論による思索に対して別の位相からアプローチし、文字通り人間の発生・発達段階を遡行するかのように探究された『母型論』では、三木成夫をはじめとするいくつかの原理的な知見を参照しつつ生物学的・生理学的な認識がベースに置かれている。『母型論』および内容がオーバーラップする『心とは何か―心的現象論入門』などには以下のような基本的な認識が示されている。

   犬、猿、人間など延髄をもった動物はかならず16秒のリズムをもっている
   臨終のときのいびきの周期は25秒だ

   人間(ヒト)の睡眠と覚醒の周期は25時間
   これは地球と月の関係、潮汐のリズムだ
   地球と太陽の関係、昼夜の周期は24時間
   睡眠障害や覚醒障害は、この2つのリズムのズレに由来する

 生物の種類をも超えて説得力があるバイオリズムや時間遺伝子的な観点からのアプローチは、吉本においてさえ根本的な知見として援用されている。しかもこの『母型論』は哲学の本ともされていて、その宣伝コピーは「言語は[母]から来る」だ。言語を根本に据えながら胎児と高度消費資本主義への論考を並列できる理由は、やはりゼロという根源的な方法論によるからこそではないだろうか…?

 

 言語のゼロ(指示決定と自己確定の不可分)と現代日本の経済のゼロ(生産と消費の不可分)が説明され、それらは父権と母権がゼロで均衡するところからスタートする母系社会が循環的に支えている…。母型論の内容と構成は、それまでの言語論、共同幻想論、心的現象論を包括し構成されるもので、しかも解剖学的な事実と、発声の変成、母音の変化、経済現象の到達点といった領域を超えた、世界そのものを把握しようとするものになっている。世界視線に象徴される世界把握の方法そのものだけを捨象して、多くの吉本理論の、ある意味で背理であるかのようなアプローチが感じられる。H2Oと表現したいというときの吉本の思想の究極、哲学がここにはあるようだ。

   素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、
   筋肉の動きからくる感覚の触手とは、大脳の皮質の連合野で交錯し、
   拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。

   この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、
   その代りに内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、
   感覚器官の感応のすべてを因子として包括していることになる。

   この拡張された大洋のイメージは、言語に集約されるような意味をもたず、
   それだけで意味を形成したりはしない。
   だが、それにもかかわらず心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ
   前意味的な胚芽の状態をもっている。

                                    (『母型論』「大洋論」P49)

 人間が根本的に自他不可分であり、すべてがまるでゼロでしかないような状態から析出する大洋に浮かぶ個体(器官なき身体)というレベルから、大洋の波動=母型という枠組みをノエシスとして個を確立しようと成長していく…といった階ていが描かれる。

 胎盤に育まれ羊水に浮かぶ初源の状態は、胎児からの欲求(需要)がそのまま母体からのアフォード(供給)でもある身体的にも認識上も差異のない状態=ゼロであり、そこからどのように母子が分離していくか、認識として自他が分岐していくか…という延長線上に吉本の思索と主張のほとんどすべてが展開されている。原点に設定されているのはゼロだ。

 羊水に浮かぶそれが自身の全面肯定であるのはわかりやすいことかもしれない。自他不可分の胎児には自分が全面肯定されているという認識しかないはずだ。もがくことも、力むこともなく、何の不安も心配もなく漂う自分がそこにいることを自覚なしに知るということ。ここから吉本のいう<大洋>がはまじる。

 自覚させてくれるのは、むしろ、自身への否定性だ。
 自身への否定は、他者の出現、あるいは自由への侵犯として生成する。自らが浮かぶ大洋が乱れ、胎児はその波を超えていかなければならない。
 原生的疎外ははじめて現実と対峙する。だがそれは対立ではなく対象の受容であり、内化であり、そして変成した自己の外化なのだ。

 

 この原生的疎外の無定型な現実に即した変化に対して枠をはめるのが純粋疎外であり、吉本はそれを「先験的理性のように」という。
 この<枠>は2つの位相をもっている。
 1つは原生的疎外が現実と接触するというその関係性そのものであり、もう1つは、その反復によって生じる規範だ。そしてトポロジカルには、それらを<境界>として捉えることができる。

 あらゆる環界(個体にとっての対象としての環境世界)の作動を抽象すれば、それはある特定の時間性・リズムとして表現される。それらの時間性との同調あるいは同期が生物的な前提だ。この同調同期は個体にとってもっとも生物として大切なシンクロである。シンクロつまり両者の時間性に異和がないこと=ギャップがゼロの状態。吉本は個体をめぐるあらゆる位相で、こういった状態を想定あるいは類推しては<純粋疎外>として同定してきた。純粋疎外、それこそが<ゼロ>の状態なのだ。

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