OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

とれまがブログランキング

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

2016年1月31日 (日)

すべては心からという問題提起…32年以上も継続した『心的現象論本論』

●人間は心=観念のある生き物…
 政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
 すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録。

 「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」近年では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえるもの。

●うつ病から解いていく驚異の展開…
 本書のメインのひとつがうつ病への緻密な解釈。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているけど、見事に『序説』から演繹された内容となっています。序説では読解に高度な抽象力が問われ、本書ではより簡明な(理論の)展開となって(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれるものが全ページで確認できます。

 たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘されています。その直線の形成は知覚の感情によることが示され、前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されています。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されているワケです。
 この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るでしょう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれません…。
 ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれません。少なくとも、論評にはそれなりの能力が必要だとすれば、それは理解も予測もできる事態なのかもしれません。

 次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまり、緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているオリジナルな観点への自問自答が繰り返されています。
 そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使され、フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングです。

●<手>からすべてを考えたり…
 よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれますが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされます。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察されます。
 人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクス。本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されています。


 <手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…


 それは外化された<了解>であり
 …個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。


 <手>がつくりあげるのは
 物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…


 吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されましたが、その読解は読者に任せられています。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのでようか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎氏の重い指摘は…。

●この潔癖さは邪魔かも?
 『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた吉本隆明氏ですが、その理論的な成果を解説するガイドは見当たりません。団塊の世代がメインを占めるであろう従来の読者層では論壇的な政治談議が目立ちます。
 最近では渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれず、本書の刊行など歓迎できるデキゴトはありますが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などは本格化していません。

 著者に失敗?があるとすれば任官しないこと?。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけました。もし東大や東工大の教授等の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得たでしょう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかったとはいえ、問題なのはむしろ理解さえされなかったということ…。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰氏などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされました。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられます。この点においては、吉本氏の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないでしょうか?


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 8,640
価格:¥ 8,640
OFF :  ()
   

ある意味、エグザンプルの多さはハイイメージ論的でもあり、最後に日本語の造語可能性を日本の古語であり基層である琉球周辺の言語(あるいは奈良時代以前の大和言葉)に求めた本書はノンジャンルの大著としても読める稀有な書籍といえるものかもしれません。

(2008/11/28、2016/01/31)

2016年1月16日 (土)

液性環境の動的平衡からはじまる…『心は遺伝子をこえるか』

 本書はポストモダンの最大の成果である<自己言及>をスタートにもゴールにも基礎にしている。もちろん著者は思想的な運動であったポストモダンに関心などないだろうが、ポスモダの当事者が何らかの解も何も出せなかったのと比べれば、本書の成果はとてつもなく大きいといえる(もちろん浅田彰氏のように何も提出しなかったことでポスモダの解というものを体現したスタンスは貴重だ)。そもそも自己言及というものを問題の基礎に据えたベイトソンなどのクラスを除けば、ここまで到達した思索はない。松岡正剛氏が著者をポアンカレーにたとえるほど評価している理由も、本書を読むと歴然だ。

   自己触媒こそは、生命の系をつらぬいている鍵となる概念であろう。
   『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
   「第一章 遺伝子は生命を機械になしうるか」「2 「心」の誕生」「(1)動物に心はあるか」(P15)

 本書『心は遺伝子をこえるか』でいう細胞間コミュニケーションは<内コミュニケーション>とオーバーラップする。リン脂質の液性環境に浸った細胞には安定と変化という相反するものが可能で、その平衡状態に対応するものとしての心的現象が想定でき、時点ゼロの双数性として設定できる。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
参考価格:-
価格:
OFF :  ()
   

 遺伝子が自己複製するためにはあらかじめ自己を<記憶>しておくことが必要であり、この記憶を<心の起源>とするのが『心の起源』だった。本書はその延長にあり、さらには考察を深め、生命にとっての心が探究されている。


 あらたにはいってくる情報と過去の記憶との照合がおこなわれ、
 ある判断がでてくることになる。それにともなってもう一つ、
 照合にさいしての満足度のようなものとして、感情があらわれてくる。
 判断と感情の最初の出現は、記憶の形成とおなじくしていて、そのあと、
 判断の複雑さが増していくにつれて、感情の複雑さもその度合いを増していくというように、
 心はしだいに複雑になっていく。

             『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
             「第一章 遺伝子は生命を機械になしうるか」「2 「心」の誕生」
             「(1)動物に心はあるか」(P9)

           
心は遺伝子をこえるか

著:木下 清一郎
参考価格:¥2,592
価格:¥2,592
OFF :  ()
   

 感情や気分といったもっとも人間らしいものについてキチンとした定義ができない人文科学に対し、本書はハッキリした解を示してもいる。
 過去の記憶と照合したときのズレに対する評価としての<感情>や<気分>「液性環境が気分そのものになる」という明確な定義。ある特定の気分(=状態)というものは、この<液性環境>のある何らかの偏りを示すことになる。これは健康診断で最も重要で基本的な指標となる血液検査からも類推できる。血液環境は液性環境の代表的なものだ。細胞間コミュニケーションをとる液性環境を生成する最大の要因と資源は血液であり、そのさまざまな反応や変化が「内分泌系を主体とする液性の細胞間コミュンニケーション」なのだ。


           
細胞のコミュニケーション―情報とシグナルからみた細胞 (生命科学シリーズ)

著:木下 清一郎
参考価格:¥2,160
価格:¥98
OFF : ¥2,062 (95%)
   

 この内分泌系の細胞間コミュニケーションとともに個体を構成する情報システムのもう一つが神経系だ。神経系の基本的な作動である<反射>、情報のストックである<記憶>は、自らの安全・安定のために過去の記憶と現在の認識を照合する…。
 照合は判断(環境と世界に対する適・不適などの判断、思考)のはじまりであり、その結果は気分としてその時点での総合判断・統合認識を形成する…。
 具体的にはリン脂質をメインにプロスタグランジンなどの微妙な変化と増減によってその時点での状態が体現される。これがその時点での気分だ。もちろん気分は変化していく…。

 個体というシステムが平衡を維持するように自己変化するのが動的平衡であり、これは自己言及によるフィードバックを前提とするコントロールだ。

 遺伝子の自己複製と、単細胞の多細胞化という進化の過程を仔細に考察しながら、心の発生を探究する本書。

 自己表出として表出する心の由来や生成はどこに求められるのか…?

 動物の鳴声やさまざまな生物の個体間におけるサインによる交換などは機能分析はできても人間の言語の発生のヒントにはならない。

 記憶と現況認識の照合、それらを総合したものとしての概念や情報。これらの膨大なストックから特定の関係を自在に取り出すための言語。ここに情報のタグとしての言葉の生成を見出すことができる。
 詩人は自由に詩がつくれると考え、言語学者は言語があると思っている…という吉本隆明のアイロニカルな指摘。それを背理にするような言語の基本的な定義をここから考えるコトができるだろう。

 大脳新皮質での情報処理が連合野の登場により総合的なものに発展したことは重大な臨界点となる。それまで、個々の感覚からの情報を概念にまとめていたのが、複数の概念を比較し相互に参照するようになったのだ。このことによって、たとえば、猫や犬のように自分の尻尾を追いかける…ようなことがなくなったといえる。個別の感覚が常に別の感覚や認識からチェックされているからだ。
 言語の生成により人間がトレードオフしたものは、母型論的にいえばスキゾフレニックなものだが、それとは別に、ここにも人間の自己に亀裂をもたらす機会が生じたともいえる。複数の中心を産出しうる連合野の登場は複雑な情況を生き抜くための方便であるとともに、人間にスキゾフレニックな認識をもたらしたからだ。

 生物としての種が、個体(の限界)を超えて担保されるための装置として快楽を定義した本書は、ジャンルを超えて先端であることは確かだ。欲望や快楽や誘惑をテーマとしてきた思想や哲学が到達できなかった解さえも、ここにあるからだ。

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO