OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

とれまがブログランキング

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月25日 (木)

無意識の指示表出=<夢>

<夢>のイメージは<視覚像>と関係なく、<記憶>とも関係ない…というのが『心的現象論序説』における夢の定義への導入になります。そこではフロイト式の、あるいは夢判断的な、そしてもっとも世界に流布されてきたような夢への理解が全面否定されています。そこにあるのは共同幻想論をはじめ言語論までを包括する、もっとも吉本理論らしい心的現象論ならではのアプローチです。3部作ほか吉本隆明の全仕事を貫く方法(論)による認識が展開され、ここに“観念の運動”としてヘーゲルから引き継がれてきた方法が際立っています。

     夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とは
     まったく関係がない…
     記憶残像が再現されるのでもない。

       (『心的現象論序説』【Ⅵ心的現象としての夢】P189)


           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,028
価格:¥1
OFF : ¥1,027 (100%)
   

 <夢>という認識(意識)には外部の対象がありません。当然ですが睡眠中であるために(構造的に)自己の外部に認識対象がありません。感覚器とそれをコントロールする脳の部分は睡眠中なので、外界に対する対象認識をしていません。あるいはそれらへの統御が機能していないか、低下した状態です。つまり、感覚が機能していないために、感覚に関する時空間性が捨象されている認識(意識)が<夢>だともいえます。

     対象が<身体>の外部に実在しないことから、
     心的な受容の空間化度は、
     それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、
     無定形な空間化度にすぎなくなる…

      (『心的現象論序説』【Ⅵ心的現象としての夢】P188)


 <夢>では外部への認識の志向性がストップしているワケです。覚醒時であれば感覚器が受容し、意識(無意識を含む)が了解して確定する、というのが認識の過程ですが、<夢>ではこの前段の感覚による受容がありません。
 <夢>は、いきなり<了解>の過程だけが対象となっている認識なのです。そこでは感覚器の受容における時空間性がないために、対象の形像も確定もありません。

 対象として形のないものを、しかも確定(概念化)できないものとして、認識し続けている…という状態だと考えられます。
 これは了解の時間性が空間化し、それが確定せずに継続する<感情>の定義と近似するものがあります。

 また、リソースとして外部情報も認識のフレームも与えられていない夢の状態は<指示表出なしの自己表出>ともいえます。正確には自己確定しようとし続ける状態、自己表出にカタチを与えようとする状態といえるでしょう。

 

概念、形態、論理といったフレームを前提として行使される意識とは異なり、流動する自(己)意識そのものである夢は、<夢を見る>という自己言及性そのものだけを指示表出とした無意識 だともいえます。


       -       -       -

「夢に関してはたいていフロイトによる夢判断のように夢に出てきた形象で夢の意味を問うものや、夢の内容を現実の(心理の)隠喩や換喩として捉えれるものが大部分です。それ以外はないといってもいいかもしれません。しかし、吉本理論における<夢>への考察はまったく違います。変幻自在で不定形でもあるような<夢>を厳密な認識の時空間構造として把握しています。そこでは<原関係><固有関係><一般関係><原了解>などの基礎概念が幻想論と対応しながら展開されています。」

ベーシックな『序説』 その4

2015年6月13日 (土)

<内コミュニケーション>という無意識

意識的な応答(媒介による間接的な母子交通)である言語による<外コミュニケーション>。
意識では把握できない、無意識下の代謝(直接的な母子交通)ともいうべき<内コミュニケーション>。さらには、<内コミュニケーション>は、無意識を生成し、それに影響を与えるものだともいえます。つまり「現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考える」ことができるワケです。


<内コミュニケーション>は無意識そのものを生成し、左右する機能であり作動ですが、同時に<内コミュニケーション>の表出はイメージであり、ある時間の経過後に言語化される可能性があるもの…ということもいえます。

外コミュニケーションとしての言語化は指示表出(や文法などの規範)を前提とします。では、内コミュニケーションという無意識(の作動)はどのようなものなのでしょうか?


   <大洋>の分節化が言語化への経路であるように、
   内コミュニケーションのデフォルトは、
   器官なき身体としての人間(受精細胞から胎児まで)の存在のデフォルト=全面肯定であり、
   ある時間経過後に<価値>と(認識)されるものではないでしょうか。

 

自己の(存在の)全面肯定というデフォルトの価値=原価値へ向かう志向性を初源のものとする作動…。
この志向(性)や作動を<価値(あるもの)>とするのが初源の志向性そのもの。
これが価値化のパースペクティヴとして、その作動そのものが自己表出(自己確定)だと考えられます。
共同幻想をも射程に入れれば「2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である」ともいえます。


 無意識そのものが何に制約され、どう規定されていくか…は不可視に見えますが、無意識も意識も身体に依拠しているという限定が、そこにはあります。また、この限定こそが時間(性)が発生するところであり、<固有時>として現存在と心的現象における基礎 となります。

 空間的には、身体は観念や意識(無意識も)という心的現象が依拠するところであり、しかもそこには還元できない、という矛盾としてそれらはあります。また、この矛盾の解消そのものとして観念や意識・無意識があるというラジカルな矛盾こそ<生>そのもの。身体に依拠するが還元できないという関連は、それが既に時間(性)であることそのもの を示してもいます。


       -       -       -

既出の2つのエントリーからカンタンにまとめると以下のようになります。

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は個体の発達段階に対応し、究極的には<応答>と<代謝>で属性が異なる。
<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にし、主に乳児段階のもの。<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとし、胎児段階のもの。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されている。その影響は直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえる。

 内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のもの。内コミュニケーションが細胞レセプターなどにより、外コミュニケーションは感覚器による。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現している。<内コミュニケーション>と<外コミュニケーション>はそれぞれ三木成夫による植物的階程と動物的階程の作動に対応している。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドが、内コミュニケーション。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想の生成を左右するものでもある。また自己表出を満たすものでもあり、内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることができる。


<内コミュニケーション>のトレードオフ

   <内コミュニケーション>による影響は
   個体の基本的な来歴として
   外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。

乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な認識は、日本では大衆の原像とともにあったありふれたもの。

   リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
   なぜなら<再体験>だからだ。

 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説における指摘は、母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束している関係性を指している。極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する、ということ。

 リアル体験は内コミュニケーション=母子関係(の経験・記憶)に照らして確定される。これが自己表出(自己確定)の初源。

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO