<内コミュニケーション>のトレードオフ
「わたしたち人だけが精神分裂病になりうるとすれば」という吉本隆明の言葉には、人間の可能性と、そこでトレードオフされたものが何なのか…が可視化されようとしています。それが<言語>と<病>です。固有名が引き寄せる病…という類やその程度のファンクショナルな認識はポスモダ以降めずらしくはないですが、同時に原理に届く探究がないという情況も珍しくはないのかもしれません…。
<内コミュニケーション>による影響は
個体の基本的な来歴として
外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。
乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な、日本ではありふれていた認識が、そこにはあります。大衆の原像とともにあったような、そういった優れた民の知見は民俗学や文化人類学的なサンプルとしてしか残っていないのかもしれませんが。
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吉本隆明はオソロシク困難な、フロイトさえ迷った経路を、粘り強く探究し、ある結論にたどりついてもしまっています。
ここでも、それをあっけなく書いてしまえば…
リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
なぜなら<再体験>だからだ。
…ということ。
体験の確定の意味を求めれば、スピードがひとつの理由になるでしょう。
なぜなら危機に対処するには早い対応が必要だからです。そこで母子関係(直接母子交通=内コミュニケーション)で感得していた、自らへの否定性の類の経験(記憶)に照応してリアル体験は即座に確定され、その後回避すべき案件として取り扱われていきます。これが不安や恐怖を動因にしたものであり、それによる神経症的な反応であり、その固定化が精神の病であることは分りやすい機序かもしれません。
“想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。
リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。
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あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?
さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。
ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。
相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。
{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
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<大洋>という全面肯定されるデフォルトの場所。
この大洋に漂う「器官なき身体」にやってくる波は、<全面肯定>の一部を侵す<部分否定>に他なりません。
この<部分否定>を受容し、経験値を上げていくことを心的現象論序説では<成長>の定義としています。
問題は、この<部分否定>に圧倒されてしまう場合。<大洋>は荒れ、「器官なき身体」が危機に瀕する…。
これが、病気なのです。
吉本隆明のオリジナルの一つには、この否定の波に耐えられるかどうかという耐性に閾値を設定したことがあります。時空間理論を駆使する心的現象論序説では他にも「Grade」(グレード)の概念の導入により、心的現象の把握に数理的なアプローチがされています。
このオリジナルな方法は、圧倒的な論理展開の可能性を準備したものともいえるでしょう。
時代の病理
著:吉本 隆明 , 他
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