<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>
一般的に言語は吉本理論の枠組でいえば<外コミュニケーション>(で使われるもの)の範疇になります。
<外コミュニケーション>は言語の生成(獲得)の原理について深い考察をしている『母型論』のターム。<内コミュニケーション>とともに発達(発生)心理学的なアプローチにともなう重要なタームでしょう。
これらは乳胎児が母親(母体)を対象としたコミュニケーションの定義に対応しています。
<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は、個体の発達段階に対応し、その媒介となるものからすれば究極的には応答と代謝という属性が異なるものともいえます。典型的には、<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にした主に乳児段階のもの、<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとしたもので胎児段階のものともいえます。
応答=外コミュニケーション、代謝=内コミュニケーションとして、さらに考察すると…。
<応答=外コミュニケーション>は間接的な母子交通であり、<代謝=内コミュニケーション>は直接的な母子交通ということになります。前者は交通の媒介となる空間性(物理的な)が介在し、後者は介在しない(正確には日常レベルでは不可視ということ)という違いがあります。またファンクショナルには前者は均衡を目指すものであり、後者は均衡を維持するものといえるかもしれません。前者は情報の非対称性を解消するもの(通常のコミュニケーション)であり、後者は需要=供給の恒常的なリバランス(を目標とするもの)です。
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さらに別の位相から見れば外コミュニケーション=間接母子交通は個体としての子と母の交通ですが、内コミュニケーション=直接母子交通は細胞レベルの交通でありレセプターやイオンのレスポンスが介在するものです。たとえば脳幹は実母の声に1/10000秒で反応しますが、これはまったく意識されません。この実母の声を録音して人間の声と認識できないまで断片化して再生しても、それに脳幹は反応します。そしてそのスピードは細胞のイオンチャネルのスピードに等しいものです。
胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されていることが類推できます。またそれらは直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえるものとも考えられます。
解剖学的にいえば内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のものです。内コミュニケーションが細胞レセプターなどによるとすれば、外コミュニケーションは感覚器によります。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現していると考えられます。あるいは植物的階程と動物的階程ともいえます。
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通常、一般的には外コミュニケーションは心理学や言語学あるいは社会学の対象となるものでしょう。それに対して内コミュニケーションは神経生理学だったり内分泌系、あるいはレセプターを介したリレーションとして把握されるものです。
時系列的には当然ですが、内コミュニケーションによる個体形成の後に外コミュニケーションによる展開からさまざまに個体は構成がされていきます。
現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考えることができます。
内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想を生成させるものでもあるもの。また自己表出を満たすものでもありそうです。また内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることもできそうです。
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