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2015年4月14日 (火)

言語とイメージが探究される理由は? 2

 呼気が発した音が音声として機能し、言葉になっていく過程。そこで必然的に生物学的なアプローチが、解剖学、発生生物学者である三木成夫の知見を手掛かりに展開されていきます。三木が一般人向けに「人間だけが息が乱れる…」と講義するとき、息が乱れない動物が類推され、あるいは息のあり方が発声を左右し、それは何らかの表出であるということが分かってきます…。

 生命とその呼吸をトレースしながらたどりつくのが、『母型論』<大洋>という概念。羊水に育まれる器官なき身体が大洋の波動とシンクロしながら分節化を繰り返し、個体として分離し、次に観念的な自他分離を繰り込んでいく過程そのものが生として把握されていきます…。繰り込み過程の抵抗値こそ不安の度合いであり、根源としての不安がここにあるワケで、フロイト(派)らのいう分離不安とは異なります。分離不安を根源とするような認識は、それ自体が母子不可分(自他不可分)がアプリオリに前提にされてしまっている証左かもしれません。

 思索と実証の純粋状態のようなこのような過程から、吉本は自らの思想を再検証するかのように構成していくともいえるでしょう。

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 発声がリズムをもっているというより、リズムが発声させるという吉本の認識には、この<大洋>のイメージがあります。リズムとは大洋の波動のことだからです。

 自他不可分のままに漂いながら育まれる生命にとって、突然おとずれる異和としての波動…

 大きく強い波動であれば、世界との関係において自他不可分な認識にき裂が走り、それは対象化され、可分な領域として受容されていきます。この繰り返しが器官なき身体の器官化であり成長であることは分りやすい事実。時とともに臨んでいく、こういった現実との接触こそ、波動の原因であり、現実そのものとなります。

 マテリアルなチューブ構造の生命体が未知の現実に接してキュッと締まってみせる時に生じるのが波動の原点。締まってみせるのは危険かもしれない現実をそのまま受容することがないようにです。それは、閉鎖系であることを基本とする生命の本来的な作動でもあるもの。あるは心臓や循環系のように波動(クロック)そのものがエネルギーの伝搬であり環界とのシンクロを志向するものとして絶えず律動し、波うっているものとして(も)あるのでしょう。

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 締まってみせるという閉口動作に、沈黙というもっとも根源的な意味を見出していく吉本の思想は、自己表出を問い続ける思索にとっては当然のスタンスになります。

 閉口動作としての発声、<|N|>への退縮を反復する日本語という環界が、指示表出させるものは何なのか? 沈黙のうちに秘められた自己表出を全面肯定しつつ、それは何なのか? 個体にとっての美なのか? 価値なのか? どういったものなのか…? それに基づく社会や共同といったものは可能なのか?

 吉本は未帰還者として、それをわたしたちに問い続けているのかもしれません。

   ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、
   何かひどい目に遭ったり…ひどい事件にぶつかったときに、
   内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する
   一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる…

    『詩人・評論家・作家のための言語論』P50(吉本隆明・メタローグ)


           
詩人・評論家・作家のための言語論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,728
価格:¥ 1,728

   

 現実を繰り込んでいく過程で、心身のシステムの安定の確保が不確実になると、現実の繰り込み以前の状態へ戻り、仮想の安定を確保しようとし…以前の<大洋>の状態(=自他不可分)へ遡行する…ことが想定できます。「<|N|>への退縮を反復する日本語という環界」とは、この遡行が日常的にありうる現象として日本語を捉えることの可能性になります。

 沈黙の表出を表現だとすれば、それは、表現だけで成り立ってきたような世界観からは壊れた、理解できない、異様なものかもしれません。その視点から見れば日本は壊れているように見えるだろうと想像した吉本隆明の慧眼?は、稀にみる思索者のものであることは明らかです。
 表現された言語による環界を超えて、非表現でさえある非言語的な世界はイメージとしてしか捉えることができません。それをイメージさせ、あるいは可視化させる可能性としての世界視線が問われることになります。

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