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2015年4月28日 (火)

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 一般的に言語は吉本理論の枠組でいえば<外コミュニケーション>(で使われるもの)の範疇になります。
 <外コミュニケーション>は言語の生成(獲得)の原理について深い考察をしている『母型論』のターム。<内コミュニケーション>とともに発達(発生)心理学的なアプローチにともなう重要なタームでしょう。

 これらは乳胎児が母親(母体)を対象としたコミュニケーションの定義に対応しています。
 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は、個体の発達段階に対応し、その媒介となるものからすれば究極的には応答代謝という属性が異なるものともいえます。典型的には、<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にした主に乳児段階のもの、<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとしたもので胎児段階のものともいえます。

 応答=外コミュニケーション、代謝=内コミュニケーションとして、さらに考察すると…。
 <応答=外コミュニケーション>は間接的な母子交通であり、<代謝=内コミュニケーション>は直接的な母子交通ということになります。前者は交通の媒介となる空間性(物理的な)が介在し、後者は介在しない(正確には日常レベルでは不可視ということ)という違いがあります。またファンクショナルには前者は均衡を目指すものであり、後者は均衡を維持するものといえるかもしれません。前者は情報の非対称性を解消するもの(通常のコミュニケーション)であり、後者は需要=供給の恒常的なリバランス(を目標とするもの)です。

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 さらに別の位相から見れば外コミュニケーション=間接母子交通は個体としての子と母の交通ですが、内コミュニケーション=直接母子交通は細胞レベルの交通でありレセプターやイオンのレスポンスが介在するものです。たとえば脳幹は実母の声に1/10000秒で反応しますが、これはまったく意識されません。この実母の声を録音して人間の声と認識できないまで断片化して再生しても、それに脳幹は反応します。そしてそのスピードは細胞のイオンチャネルのスピードに等しいものです。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されていることが類推できます。またそれらは直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえるものとも考えられます。

 解剖学的にいえば内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のものです。内コミュニケーションが細胞レセプターなどによるとすれば、外コミュニケーションは感覚器によります。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現していると考えられます。あるいは植物的階程と動物的階程ともいえます。

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 通常、一般的には外コミュニケーションは心理学や言語学あるいは社会学の対象となるものでしょう。それに対して内コミュニケーションは神経生理学だったり内分泌系、あるいはレセプターを介したリレーションとして把握されるものです。

 時系列的には当然ですが、内コミュニケーションによる個体形成の後に外コミュニケーションによる展開からさまざまに個体は構成がされていきます。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考えることができます。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想を生成させるものでもあるもの。また自己表出を満たすものでもありそうです。また内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることもできそうです。

2015年4月14日 (火)

言語とイメージが探究される理由は? 2

 呼気が発した音が音声として機能し、言葉になっていく過程。そこで必然的に生物学的なアプローチが、解剖学、発生生物学者である三木成夫の知見を手掛かりに展開されていきます。三木が一般人向けに「人間だけが息が乱れる…」と講義するとき、息が乱れない動物が類推され、あるいは息のあり方が発声を左右し、それは何らかの表出であるということが分かってきます…。

 生命とその呼吸をトレースしながらたどりつくのが、『母型論』<大洋>という概念。羊水に育まれる器官なき身体が大洋の波動とシンクロしながら分節化を繰り返し、個体として分離し、次に観念的な自他分離を繰り込んでいく過程そのものが生として把握されていきます…。繰り込み過程の抵抗値こそ不安の度合いであり、根源としての不安がここにあるワケで、フロイト(派)らのいう分離不安とは異なります。分離不安を根源とするような認識は、それ自体が母子不可分(自他不可分)がアプリオリに前提にされてしまっている証左かもしれません。

 思索と実証の純粋状態のようなこのような過程から、吉本は自らの思想を再検証するかのように構成していくともいえるでしょう。

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 発声がリズムをもっているというより、リズムが発声させるという吉本の認識には、この<大洋>のイメージがあります。リズムとは大洋の波動のことだからです。

 自他不可分のままに漂いながら育まれる生命にとって、突然おとずれる異和としての波動…

 大きく強い波動であれば、世界との関係において自他不可分な認識にき裂が走り、それは対象化され、可分な領域として受容されていきます。この繰り返しが器官なき身体の器官化であり成長であることは分りやすい事実。時とともに臨んでいく、こういった現実との接触こそ、波動の原因であり、現実そのものとなります。

 マテリアルなチューブ構造の生命体が未知の現実に接してキュッと締まってみせる時に生じるのが波動の原点。締まってみせるのは危険かもしれない現実をそのまま受容することがないようにです。それは、閉鎖系であることを基本とする生命の本来的な作動でもあるもの。あるは心臓や循環系のように波動(クロック)そのものがエネルギーの伝搬であり環界とのシンクロを志向するものとして絶えず律動し、波うっているものとして(も)あるのでしょう。

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 締まってみせるという閉口動作に、沈黙というもっとも根源的な意味を見出していく吉本の思想は、自己表出を問い続ける思索にとっては当然のスタンスになります。

 閉口動作としての発声、<|N|>への退縮を反復する日本語という環界が、指示表出させるものは何なのか? 沈黙のうちに秘められた自己表出を全面肯定しつつ、それは何なのか? 個体にとっての美なのか? 価値なのか? どういったものなのか…? それに基づく社会や共同といったものは可能なのか?

 吉本は未帰還者として、それをわたしたちに問い続けているのかもしれません。

   ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、
   何かひどい目に遭ったり…ひどい事件にぶつかったときに、
   内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する
   一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる…

    『詩人・評論家・作家のための言語論』P50(吉本隆明・メタローグ)


           
詩人・評論家・作家のための言語論

著:吉本 隆明
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 現実を繰り込んでいく過程で、心身のシステムの安定の確保が不確実になると、現実の繰り込み以前の状態へ戻り、仮想の安定を確保しようとし…以前の<大洋>の状態(=自他不可分)へ遡行する…ことが想定できます。「<|N|>への退縮を反復する日本語という環界」とは、この遡行が日常的にありうる現象として日本語を捉えることの可能性になります。

 沈黙の表出を表現だとすれば、それは、表現だけで成り立ってきたような世界観からは壊れた、理解できない、異様なものかもしれません。その視点から見れば日本は壊れているように見えるだろうと想像した吉本隆明の慧眼?は、稀にみる思索者のものであることは明らかです。
 表現された言語による環界を超えて、非表現でさえある非言語的な世界はイメージとしてしか捉えることができません。それをイメージさせ、あるいは可視化させる可能性としての世界視線が問われることになります。

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