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2015年2月28日 (土)

イメージを生むもの…とは?

  言語における像がなぜ可能となるか、を社会的な要因へまで潜在的にくぐってゆけば、
  意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係と、
  指示表出をうながした生産諸関係とが矛盾を来たした、
  楽園喪失のさいしょまでかいくぐることができる。

          (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅱ章 言語の属性」「3 文字・像」)

 「意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係」というのは、『共同幻想論』によれば共同幻想と共同幻想(あるいは対幻想)の軋轢などから自己幻想=自意識を析出させられるような事態のことになります。こういった認識、何かをブレークスルーしなければならないようなアプローチは、「ソシュールのプログラムには自己表出としての言語は存在していない」(『言語にとって美とはなにか』「第Ⅱ章 言語の属性」「1 意味」)という鮮やかな見切りをはじめ、自己表出=価値(論)を追究していく吉本理論の凄みと破壊力によるところが大きいものかもしれません。


           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

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  原始人の叫びごえが特定の律動をもち…
  特定の音の組み合わせが、特定の対象にむすびつき、
  その象徴としてあらわれたことは、たれも否定することができない。
  この過程は…
  そのなかから個別的な音の響きをききわけて個別的なちがいをみとめるとともに、
  抽出された音声の共通性を認知できるようになったことを意味している。

  (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』第Ⅰ章 言語の本質 3 音韻・韻律・品詞)

 音声の「特定の律動」と「特定の音」が「特定の対象」に結びつき、音声そのものが「その象徴」として現わされ、それへの感受性が知覚から解釈へと展開していく過程がシンプルに説明されます。「音の響きをききわけて」「個別的なちがい」を知り、そこから逆に「抽出された音声の共通性を認知できる」ようになっていくことが示されています。感覚よる受容から共同性までのステップはこの程度にシンプルなもの。


  自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、
  もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、
  これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、
  ある時代の言語の水準をしめす尺度となることができる。

  言語はこのように対象にたいする指示と
  対象にたいする意識の自動的水準の表出という
  二重性として言語本質をなしている。

  (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅰ章 言語の本質」「1 発生の機構」)

 言語が対象を指示していることと、その対象への認識のレベルという2つの位相が、言語の二重性としてあることが示されています。指示表出と自己表出の二重性です。指示表出と自己表出は言語にとって不可分であり、その不可分さだけをフォーカスすれば、理念的にはそのカップリングは純粋言語として言語の本質をなしていることになります。現実にはTPOによりあらゆる言語は個別的現存において何らかの機能や意味を帯びており、その固有時間における一回性のものであることが第一義的な事実でしょう。


           
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 人間がなぜ像=イメージというものをもつのか? このもっとも人間らしいナゾは、それこそナゾそのものとしてあります。もちろん、このナゾにもさまざまな位相があります。眠っていて、あらゆる感覚が現実を感受する能力を失っている時でも人間は夢=イメージを見ますが、吉本理論やここでの思索では、夢は「現実を感受する能力を失っている時」だからこそ見るものであり、それは実験心理学でも明らかな、まったく刺激がなければ覚醒していても幻覚を見るというような実験をエビデンスとすることができるものです。神はいないからこそ、国家もないからこそ、これらは「ある」ものとして認識され、事実その連続が歴史として、その関係が世界として、人間の生きている環界をつくってきました。クオリアに象徴されるような認識のリアリティも、そのミニマムなもの。あらゆる錯覚も同じ理由によるでしょう。

  音声は、現実界を視覚的に反映したときの反射的な音声であったとき、
  あきらかに知覚的な次元にあり、指示表出は現実界への直接の指示であった。
  しかし、音声が意識の自己表出として発せられるようになって、
  指示性は現実にたいするたんなる反射ではなく、対象性としての指示にかわった。

           (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅱ章 言語の属性」「3 文字・像」)

 『言語にとって美とはなにか』という吉本隆明の代表作は、言語が像=イメージをもつことへの探究です。言葉については哲学から言語学まで、宗教も含めて、さまざまな考察や思想が古今東西あるのでしょうが、いずれも大きな陥穽やヌケがある可能性があります。それは考察するときの対象としての言語の形態の把握からしてアバウトなため。表音文字と表意文字では全く異なる位相があるし、発声されている言葉か、書かれた文字かでも大きな違いがあります。吉本隆明は、そういった属性の違いをていねいに整理しながら論を進めています。ラカン派の精神分析医が漢字は別物だ…とその著書で指摘していますが、形態や属性への考察、基本的な峻別がなくては説得力のある探究は困難。逆に、たとえば書くもの書かれたものとしての現場からは、白川静 のように書くという行為(の常同反復)から何かを感得しようとするアプローチにカントの思索のような可能性があるかもしれません。


           
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