言葉を生むもの…とは?
…言語の陰画の特徴は、まず言語そのもののように<意味>をつくらない。
つぎにそこから由来するともいえるし、逆にこちらの方が源泉だともいえるが、
像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を
同一「概念」のようにみなすといった特徴をもっている。
(『母型論』「病気論Ⅱ」P87)
とても重要な事が2つ示されています。1つは、言語の陰画は意味をつくらないのですが言語を支えている(だから陰画と表現されている)ということ。これは錯覚などをテーマとする心理学でいう「地」「図」のような関係に例えると、以前のエントリー*「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」で書いたような説明が参考になります。
「ルビンの壷」でいえば、
「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、
逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。
これは<意識>を支えているのは<無意識>ということでもあり、
知覚を可能にしているのは非知覚領域だ…ということを示唆してもいます。
*「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」
2つ目は認識力一般としてはこちらの方が重要ですが、「像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を同一「概念」のようにみなすといった特徴」です。異なるものを同じものとみなす志向(性)ともいうべき構成同一性は、このblogでも当初からフォーカスしてきました。構成同一性はベイトソンでいえば学習Ⅱレベル(松岡正剛の千夜一冊・「精神の生態学」)に関係するものですが、この構成同一性そのものの根拠やその初源がどこにあるかについてダイレクトに示してみせたのは、この吉本隆明が初めてになります。この認識能力の混乱がたとえば分裂症であることはいうまでもないでしょう。違ったディメンションにある像を同一視したりすれば、その理由が他者にとって理解不能である限り、それはビョーキとされてしまいます。
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キチンとした概念規定による言葉と確固たる文法による言語があり、その言語世界が構築する世界観があるとします。それはキチンとした世界観であり認識であり、ゆるぎない価値判断を提供するものでしょう。他方、アバウトな概念といい加減な文法の言語があり、世界観があるとします。
このキチンとした世界観はアバウトな世界観を理解できるでしょうか?
概念規定がキチンとしていればしているほど、その規定からハミ出すものやカバーできないものは間違っていると認識されるはずです。あるいは狂ったものだと判断されるかもしれません。キチンとした概念や文法から乖離すればするほど異常で、狂っているとされるでしょう。これが前エントリーの「「日本は壊れている」…とは?」でフォーカスされた壊れているとされることの根本的な理由だと考えられます。
もちろん「日本は壊れている」という吉本隆明のもっともラジカルな問題意識とモチーフは、吉本隆明自身によって解答が用意されており、それこそが彼の長い思索の魅力や意義として多くの読者を惹きつけてきたのではないでしょうか?
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結論をいってしまえば、壊れて見えるところに可能性を見出していくのが吉本隆明の思索だということになります。33年もかかった未完の大著『心的現象論本論』の最後は重畳語の自由な造語の可能性に注目しています。それは文法などなくとも新しい言語が可能であることを示しており、これはF・ガタリが指摘するようなヨーロッパのジャーゴンには文法がなく言葉を付け足していくだけだが言語や文は成り立っている…ことなどと同じもの。
また音声的には日本語の基層を成す琉球語の三母音のように、絶えず<|N|音>に向けて縮退しようとする発声の特徴があります。これは自然音をも含めて考えると人間の自然音としての自己表出だけの音声への回帰の志向が常にあるとも考えられるもの。当然その志向のなかでは人声と自然音は同定も同致もしやすく、自然と人為の意味変換や価値変換が自在であることが想像できます。吉本式にいえば、日本語は自然音との純粋疎外状態が常同的であり、それに応じて環界への意味(あるいは価値)付与もなされるだろうということです。これが世界観や自然観であることはいうまでもありません。
この初期神話に記載された自然の景物や天然現象を、聴覚にうったえる言葉の
音声を発するものとみなし、また天然の景物や天然現象の端々を擬人(神)化して
みせる世界認識の特徴は、マラヨ・ポリネシア語族のひとつの系統の言語を基層に
もつ日本語の特質、いいかえれば景物を擬人とみ天然音を語音となる特質を生み
だすことになったとかんがえられる。
(『母型論』「語母論」P100)
この言語の歴史的変遷を、個体の発達の段階と同定して、あわわ言葉をはじめとする概念を設定し探究していくのが吉本隆明の言語理解であり、それは同時に共同性への、社会への、現在へのアプローチとなります。
ボキャブラリの数がそのまま社会階層を反映するような欧米社会ではアッパーな階層ほど語彙が多いのが当然でしょう。分節化し、どこまでも微分されていく言語世界。この分節化の進展こそが社会(階層)の進展や進歩と同一視されています。では逆に語彙が融溶し、発声や発話が縮退し短縮化する社会はどうでしょう。かつて「チョベリバ」が注目されたギャル語の世界。自分たちだけで共有することを目的としたような、極小共同態のための言葉…。島ごとに村ごとに違う琉球の島言葉…。沈黙の発声である<|N|>へ向かって絶えず縮退しようとする、五母音から三母音へ収斂しようとする日本語の基層…。
分節化と差異化を繰り返し増大する子音のディラックに埋まっていく欧米言語と、沈黙へ向かって縮退し自然音と同致していくかのような日本語。
スキゾフレニックなデッドロックへの道と、あわわ言葉とバブバブと反復する幼童的世界。この2極を自在に行き来する思索こそ吉本隆明が体現してきたものなのでしょう。
すべての童話の特性、
いいかえれば幼童性と等価な形式的な特性は、
反復の構造だといえよう。
(『ハイイメージ論Ⅲ』「幼童論」P197)
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