「日本は壊れている」…とは?
自らの思想を包括的に語るときに、吉本隆明は、日本は壊れている…といく度か述べています。このラジカルな問題意識こそ、吉本の全思想を貫くもの。『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ』などで語られている「日本は壊れている」という認識…それは何を意味しているのでしょうか?
正確には<欧米言語から見れば、日本は壊れている>ということであり、そこでは、日本が壊れているようにしか見えない欧米言語=思想の限界も顕わになっていきます。これらの問題は、『母型論』や心的現象論で繰り返しフォーカスされているとおり個別具体では現存在に症例として表象するもの。それゆえに、心的現象論をはじめとした、膨大な精神疾患などの症例からアプローチしていく吉本ならではの方法論をも示していることになるでしょう。
この<壊れ方>について思索したものが、あの共同幻想論です。
オトナが神仏を敬いながら、コドモは神仏をオモチャにして遊び、そこでコドモに下る罰と、その反対としてのコドモへの救済の物語…。
このアンビバレントな罪なり罰なりの相反する2つの方向が、日本の壊れ方の典型的な代表例としてサンプリングされていくのが共同幻想論の醍醐味です。欧米では空間的に領域が異なる2つの方向が、日本では並列、並立しているという状況を共同幻想論は明かしていきます。時空間的に自在に変換してしまう日本の状況というもの、あるいは日常的にキメラとしてそれらが鼎立している日本の生活空間…。
けれども自分ではあれ自体にはまだ続きがあって、
もう少し完成に近いところにもっていかなきゃいけないのに、
論理がそうならない。
(『吉本隆明の世界』P96)
「あれ自体」とは「アフリカ的段階」のこと。「論理がそうならない」というところに深く大きな意味があるのではないでしょうか? ここには、言葉から見れば壊れているというものを、今度は論理としてどうなのか?という位相まで追い、やはり論理から見てみてもそうならない、となる…。壊れているという空間的規定からの逸脱を、そうならないという時間的な位相のものとして追い込んだ、ある対象を限界あるいは臨界まで探究し、おそらくは反復という残余しか残らないところまで追いつめる…吉本隆明ならではの思索の破壊力が顕になった瞬間だといえそうです。残余としての反復が幼童性であり純粋であり、可能性であることはいうまでもありません。赤ちゃんはバブバブするだけですが、イナイイナイバアだけでも、それが豊穣であることは誰もが認めるところでしょう。あらゆる可能性がそこにあるからです。
日本を<壊れやすい>ものとして捉えたものとして『フラジャイル 弱さからの出発』や『日本流』(松岡正剛)などがあります。日本ならではのアプローチだといえますが、そこにはその壊れやすいものにこそ強さを見出す視点があり、その思索はオリジナル。これからの可能性にあふれた思想でしょう。それは大衆の生活や文化に見出だせるものでもあり、大衆の原像のイメージにもリレーするもの。たとえば童謡がある時ある意味では社会に蔓延りだした同調圧力への抵抗であり、しかも侵されることがないことを示してみるなど、松岡正剛氏ならではの優しい眼差しが、フラジャイルなものへのリスペクトともいうべき思索を巡らせていきます。
フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)
著:松岡 正剛
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フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)
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日本流 (ちくま学芸文庫)
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