入力が無い時の<受容>と<了解>
知覚が受容するものは感覚器官の対象ごとにそれぞれですが、いずれも時空間=マテリアルな制約の範囲内です。閾値としての最低刺激量以上であれば感覚が破損するほどの刺激量を上限として、それらは計量可能なマテリアルな現象ですが…。
逆に、知覚するものがない場合、感覚や知覚はどのように対応するのでしょう?
一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
別の異質の過程とかんがえることができる。
ある対象物がそのように<視える>ということと、
視えるということを<了解>することとは別のことである。
(『心的現象論本論』P10)
心的現象論本論
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感覚による<受容>とトータルな認識による<了解>を峻別したうえで、<受容>する対象が無い場合の<了解>(認識)に何が生起するのか…という問題が心的現象の多くを占めているのかもしれません。
いちばん大きな問題は、入力が無い場合に対する応答や反応はどういうものなのか?ということ。基本的に物質として摂取するエネルギーはともかく、情報が入力されない場合あるいは入力される情報が無い場合、生命システムはどうするのでしょうか?
個別の実験では明らかになりつつある問題にミッシング・ファンダメンタルがあります。入力されない状態ではどうするかという問題、無入力の問題ですね。何も入力されない場合、生命システムはどう対応しているのか?…
答えとしては…
脳は、情報が抜けているところを、その周辺の情報、前後の文脈から補う…
(『空耳の科学』P141)
空耳の科学 ~だまされる耳、聞き分ける脳~
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情報については、以上のような実験心理学や神経生理学やで明らかになっている事実があります。デジタル機器でいえばエラーキャンセラーのようなもの…というよりそのものかもしれません。
情報の空白が生じたとき、埋めるものを「空間的な周辺」からもってくる場合と、
そうではなくて「時間的な周辺」から持ってくる場合の二通りがある。
(『脳を知りたい!』P204)
脳を知りたい! (講談社文庫)
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人間にとっての無入力や情報がないという状態では、結果は複雑なアウトプットとなります。情報がフレームアップされるだけではなく、それを正当化(最適化)する論理そのものも生成してしまいます。この論理を生成してしまうことそのものが、文化や宗教、道徳といったものに典型的に現れているといえるでしょう。
左右の視覚を分断して優位な方の目だけに物を見せても、見えなかったほうの目でも「見えた」と認識するのが脳であり、常に欠落した情報を補っているという事実があります。この「見えた」は嘘なのですが、合理的な自覚のない嘘であり幻覚や幻想に近似し、相当するもの。心身の合理性と物理的な合理性はイコールではなく、それを媒介する論理的な合理性そのものにも?がつきまといます。可能性としては、そのことによってシステムの安定を確保することや均衡を維持することが目的なのだ…ということが推定できます。
…それぞれの生存に適したように世界を捉えている。
それぞれの知覚システムが、世界の現れ方を決めている…
(『空耳の科学』P145)
人間の個体はそれぞれの個体に特有のTPO(場所的限定)から規定を受け、そのなかで認識し行為し生きています。そのために、そこで発現するエラーキャンセラーもさまざまであり、個性的でしょう。それは共同性でいえば文化の多様性となります。
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これが人間関係だとどうなるのか? このような問いにダイレクトの答えたのが心的現象論や共同幻想論だともいえます。
そこには人間{関係がなければ<関係がある>と認識する}という基本的な認識構造があるといえるでしょう。社会や共同体が存立する前提には関係のエラーキャンセラーともいうべきものがあるわけです。
そもそも社会という不特定多数との人間関係は物理的につまり感覚的に認知し確認できるものではありません。毎日いっしょである家族以外では、友だちを知っている、バイト先の知っている人、いつも通る場所にいるいつも見かける人…など<知る>ことを通してそれこそ認知しているだけです。家族のように感覚的に恒常的に感知しているわけではなく、多くの場合ほとんどの他者は記憶との照合によって認識されているのが実態でしょう。他者に向けて日常的に行使されている感覚は視覚と聴覚。そのイメージと記憶が他者認知のベースになっています。それは幻想や幻覚あるは幻聴などの現象も病も、視聴覚によるものが多いという事実に現れています。
人間のあらゆる認識を支えているのは、このエラーキャンセラーなのだといえます。部分的には錯覚などともいわれていますが、それは錯誤ではなく<そう認知できる何か…>だといえるもの。この問題にむかって探究をすすめたひとつの思索として吉本隆明の壮大な仕事があるような気がします。
エラーキャンセラーとしての認識は、エラーに代替するものを代入することで完成します。
「すべては<代入される空間性>」とは、そういうことです。
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自然界の音、あるいは音の自然状態に近似するのがホワイトノイズ。心身そのものをフィルターとしてパスする人間は、このホワイトノイズから(でも)いくらでも有意な、つまり価値の対象としての音を生成し創作しています。ここに、音階を見出す契機を発見し、論考をすすめているのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」です。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?
身体をフィルターにしてホワイトノイズを価値化するのは、わかりやすい見解ですが、ハイ・イメージ論は心的現象、典型的な精神疾患としても、これを抽出しています。フリーハンドの創作された楽譜?と、グラフィカルな図解だけでも、専門家を圧倒する何かがそこにあり、この時期にコラボした坂本龍一でさえ、何かコンプレックスを感じるほどのものではなかったのか…と思いたくなるような、圧倒的なものが、ハイ・イメージ論にあります。
クラフトワークのモフモフした音でさえ、ハイイメージ論で採譜されている姿には、GoogleEarthをはじめてのぞいた時のような、ウワッと思うような、しかしクールな何かが、そこにあります。それは、人間にとってはじめての<人工のもの>に挑むような迫力がそこにあることかもしれない…といってみたくなるようなものです。
アウトバーン
演奏:クラフトワーク
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この日常的で、かつ恐ろしくラジカル?な思索(者)の、その価値は、誰がどうやって確認し、伝達するのだろう…という平凡な疑問な、やがて大きく問われる時があるだろうと思うことがあります。
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