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2014年9月30日 (火)

<自己抽象>と<自己関係>の2つの系

現存在分析的にアプローチすると、人間の個体は2つの系から構成されています。
<自己抽象>と<自己関係>の2つの系です。

2つの系は、言語に表出するものとしては、
たとえば「は」と「の」という助詞に象徴的に表象していると考えられます。
「ワタシは…」(自己抽象)と「ワタシの…」(自己関係)の、「は」と「の」のようにです。

自己抽象は自己意識そのものであり、対象化されていない自己。
「ワタシは…」の「は」は自己を限定する機能であり、自己以外の何ものも指示していません。
自己関係は対象化された自己であり、その対象と主体にまたがる両価的な自己。
「ワタシの…」の「の」は自己を対象とする機能であり、自己の何ものかを指示しています。

自己抽象は対象のない意識そのものであり、それは時間(性)といえます。

自己関係は自己を対象とする関係であり、それは空間(性)といえます。

この時間性と空間性(の錯合)があらゆる認識のベースとなっていきます。


 いっさいの了解の系は
 <身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
 いっさいの関係づけの系は
 <身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を獲得するようになる。
              

(『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

了解の系としての4つの時間性=クロック


意識の動きそのものである時間性。
対象との関係そのものである空間性。
この2つの総合として認識が構成されていきます。
「対象との関係」の初源の対象は自己の<身体>になります。


  人間の現存性を支えている根拠は
  <わたしは―身体として―いま―ここに―ある>という心的な把握である。

  <いま>は現在性の時間的な言い回しであり、<ここ>は空間的な言い回しである。
  このばあいもっとも問題になるのは<ある>という概念である。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P177)


<ある>に析出する原認識ともいうべきもの。
探究されるのは現存在として既に錯綜している<ある>の内容…。
数理的に追究されそうな定理ともいうべきものが、
心的現象論では数行の論述で把握されていきます。

冪乗、遠隔化、逆立といったファンクショナルな(ものの)動因も、
その構造そのものにある…
という思索が可能な根源へのアプローチです。


  <わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の識知は、
  その次元を自己の<身体>にたいする自己の
  <自己了解づけ>と<自己関係づけ>の位相においている。
  これは、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば、自然-観念現象に基づいている。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P178)


身体(という自然)に依拠しながら、そこには還元できない観念の現象…。
身体への自己言及が不可能だが必然な領域としての純粋疎外…。
自然へプラグしようとする知覚と、対象をリーチングする運動…。
行動と観念が未分化の胎児からはじまる心的現象の自然過程…。
それらを環界として覆っていく言語そのものの展開…。


   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93


現象学の遁走を追究しながら展開される、心的現象論の異様ともいえるほどラジカルな射程。
難解で有名な思索の、意外にシンプルな論述が心的現象論に結実していきます。


心的現象論本論

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2014年9月 5日 (金)

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

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抽象と具体として補完し合う二人の思想巨人?吉本隆明の著作への理解度が評価を分ける対談。

2014/9/5       
       

        レビュー対象商品: 世界認識の方法 (中公文庫) (文庫)       

この本の冒頭50ページのミッシェル・フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」は、スレ違っている とか噛み合っていないという評価が多いものです。しかし、フーコーの以下の言葉ひとつでも、対談の内容は把握できるのではないでしょうか? 互いに相手に 可能性を見出そうとするスタンスと、それとともに自らの立ち位置も振り返ってみるという思索の醍醐味にもあふれた対談だともいえそうです。

   基本的な点で、
   私は吉本さんのお考えに賛成です。
   お考えに賛成というより、
   とりわけてその留保の部分に賛成したいと思います。
(P36)
   (注:「留保」の部分というのは吉本隆明がフーコーに同意できないと伝えた部分のこと)

対談の基本的な構図は、たとえば共産党をめぐる評価に端的に現れています。
“ヨー ロッパでキリスト教会以来の特別な存在である共産党”というフーコーの指摘と論考は鋭く、個人の意志が党の意志に収斂あるいは拘束されていく過程が、フー コーならではの手つきと認識で把握されていきます。そこでフーコーはマルクスやマルクス主義を否定しているのではなく、党や官僚という権力機構との結びつ きを問題にします。そして“マルクスの言葉と結びついた権力の発現形態をシステマティックに検討する必要がある…”というのが吉本の問いに対するフーコー の解答であり主張になっています。しかし考えてみれば、この権力の発現形態への分析こそ吉本における共同幻想論であり、その全体を貫く思想であることは吉 本の読者なら知るところでしょう。吉本がマルクスとマルクス主義を峻別したように、フーコーはマルクスとその政治的権力との結合を分けています。吉本は理 念において、フーコーは現実においてという相異はありますが、両者ともマルクスそのものを否定しているのではなく、むしろ逆に何らかの可能性を見出そうと してることが確認できます。

           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
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対談中フーコーは自らの代表作である『言葉と物』への吉本による読解の深さに感謝すると同時に、吉本の指摘に 応じてこの著書への「ある種の後悔」を表明し、いまは「具体的な問題から出発」し「新たなる政治的イマジネーションを生じさせる」ことを目指したいと語っ ています。これはそのまま吉本の仕事(思索と著作)が目指しているものそのものと同じでもあるでしょう。

フーコーは吉本にとってのエグザンプルを語っており、吉本はフーコーの問題意識そのものを思索した…ともいえるスリリングが関係が対談に結実しているという見方さえできます。

フー コーのパラグラフでは確かに読みにくいおもむきがありますが、これは編集に負うところが多いものでは?とも思われます。対談の流れに実直であることは必要 かもしれませんが、読者の理解を得るための工夫はもっとできたのではないでしょうか。いずれにせよ、吉本への理解度が、この対談そのものへの理解に比例す るのは間違いなさそうで、そういった意味では読者そのものが試される本であり対談であるのかもしれません。そしてまた、この対談で提出された問題は、いま も糸口すら見つかっていないようなものである気がします。

吉本が共同幻想についての最後の思索をした、『ハイイメージ論Ⅲ』資本論を援用した 消費論では、現代社会の不安について「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」ことが根源にあるとしています。これはフーコーが 欧州では教会以来の特別な存在である共産党が問われていない…と指摘したこととパラレルな面がありそうです。

フーコーのスタンスをニー チェ風にいうと…神は死んだが、新しい言葉がない…というのがニーチェから授かりさらに思索したフーコーの認識ではないでしょうか。ディスクールの死、新 しいイマジネーションの貧困…フーコーは根源的な問題を吉本と共有できているという確信のもとに対談に臨んでいるように思えます。

異なる のは理念的か現実的か、日本か欧州か…という問題であり、そこには方法の問題がクローズアップされている…ということではないでしょうか? いずれにせよ 世界認識という俯瞰からしか理解できない問題であるとしても、それこそ2名の思想の巨人の対談として、もっともマッチしたパフォーマンスだったと思いまし た。


はじめに書きましたが、この対談を「スレ違い、成り立っていない」という指摘があり、なかには「吉本隆明はフーコーに相手にされていない」というものもあ ります。これらの指摘が何かの参考になるとすれば、そういう指摘をする人自身が実は本書を読んでいなかったり、単に理解力・認識力が無い場合が少なくな い…ということのようです。学問や思想の世界では、いまだに西欧コンプレックスがあるのかもしれませんが、本書を否定するようなタイプの人の言説では参考 になるものもなく、単語の逐次変換と文法だけで文意が解ると考えているような人ばかりなので、そういった人を振り分けるリトマス試験紙として本書を巡る評価を観察するのも面白いかもしれません。

対談での通訳(蓮實重彦)による幻想の間違った翻訳(幻想をfantasmeと誤訳。文脈からillusionが適正)を批判した中田平氏は、その後共同幻想論を仏語に訳しパリまで届けました。また竹田青嗣氏のように、この対談の他フランス現代思想を代表するガタリやリオタール、ボードリヤールらとの討論などをみても、現代思想をはるかに凌駕する吉本隆明の可能性を指摘した人もいます。何よりもフーコー自身が吉本の指摘をすべて受け入れており、「言葉と物」のラジカルな再考を表明していて、フーコー研究の最大のポイントとなる対談でもあるハズです。

*吉本の共同幻想はマルクスの公的幻想(上部構造の別称)に由来することを勁草書房の吉本隆明全集での吉本自身の説明からいちばんはじめにネットに紹介したのは羊通信の2003/5/15版です。

     ↓

「K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたらとたんに混乱してるワケ?」

(2014/9/5,2015/8/6,2016/2/23)

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