指示表出から自己表出まで16年…自閉症児ドナ
<指示表出>と<自己表出>は根本的な概念で、また分析ツールとして万能のように使える便利なものです。すべての病は言語に表出するというラカンの指摘(『母型論』で高く評価されている)があります。だとすると、逆に、言語の基本概念である表出の2つの位相(指示表出と自己表出)からは、すべての病への経路が見えてくるハズです…。
指示決定と自己確定という2つの位相は、ラジカルにもリアルにも個別的現存である人間を、その現存在分析の究極である2つの系(自己抽象と自己関係)からアプローチするときの概念装置にもなります。
言語なり何なりの指示表出を認知しても、それを自己表出できないことは少なくありません。指示決定されているものを自己確定できないことは珍しくなく、日常的なデキゴトでしょう。
たとえば、白い丸い印を見たとして、形態としての<白い丸>を確認できても、それが何であるか?何を示しているか?…はわからないことがあります。その白い丸は賛成の意を示しているのか? 何らかのチェックマークなのか? UFOを描こうとしたのか? …理解や解釈といった自己確定の可能性は多様で、カンタンには同定できないことはよくよくあること。
その確定未然の空間に何かを代入する(という心的な防衛機制的な適応システム)のが共同幻想の基本的な機序になりますが…。*「すべては<代入される空間性>」 *「「空白」と精霊とピダハンの言葉と」
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自閉症児ドナは、大好きなお祖父さんが死んで、それに納得するまで16年かかっています。ドナは自己確定できないお祖父さんの死に、別の理由をみつけて、怒りました…。
あるいは真実は逆で、ドナは大好きなお祖父さんと別れたくないために、その死を認めなかったのでしょう。ここでは、両眼視野闘争などと同じで、不可視なものを可視化することで心理的な安定を得ている…という機序と同じように防衛機制的な適応システムが働いていると考えられます。つまり、認めたくない事実を、別のもので代替してしまう、認識不可能なものに別のものを代入して認知を仮構してしまうワケです。
ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。
でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。
21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。
お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、
それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。
指示決定から自己確定まで16年間。
(*「自閉症児ドナのこと」から)
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当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは
「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。
そこには死への理解や悲しみはありません。
(同上)
「「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てた」という自閉症児ドナ。ここから、お祖父さんは死んでいて、そのことを自己確定して泣くまで16年の月日がかかっています…。
ここには関係への認識が存在の確認より先立っている事実がそのまま表象しています。
ドナにとっては、お祖父さんが自分を認め、肯定してくれることが、まず第一要件であって、そこからスタートするのがドナの世界(観)であることが推測できます。母子一体(自他不可分)の状態から成長(時間)とともに遠隔化していくのが正常な過程ですが、それに費やす時間的な量はさまざまなのでしょう。ドナには長い時間が必要だったのであり、自閉症はその意味では器質的な問題云々ではなく、心的現象論のように時-空間性の量質変化の問題として把握されます。(*「誰でもはじめは赤ちゃん」*「はじまりは<自他不可分>」)
{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が
析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を
考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたような
イメージもあります。
*「『共同幻想論』・対幻想論から考える」
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