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2014年7月25日 (金)

指示表出から自己表出まで16年…自閉症児ドナ

<指示表出>と<自己表出>は根本的な概念で、また分析ツールとして万能のように使える便利なものです。すべての病は言語に表出するというラカンの指摘『母型論』で高く評価されている)があります。だとすると、逆に、言語の基本概念である表出の2つの位相(指示表出と自己表出)からは、すべての病への経路が見えてくるハズです…。

指示決定と自己確定という2つの位相は、ラジカルにもリアルにも個別的現存である人間を、その現存在分析の究極である2つの系(自己抽象と自己関係)からアプローチするときの概念装置にもなります。

 言語なり何なりの指示表出を認知しても、それを自己表出できないことは少なくありません。指示決定されているものを自己確定できないことは珍しくなく、日常的なデキゴトでしょう。
 たとえば、白い丸い印を見たとして、形態としての<白い丸>を確認できても、それが何であるか?何を示しているか?…はわからないことがあります。その白い丸は賛成の意を示しているのか? 何らかのチェックマークなのか? UFOを描こうとしたのか? …理解や解釈といった自己確定の可能性は多様で、カンタンには同定できないことはよくよくあること。
 その確定未然の空間に何かを代入する(という心的な防衛機制的な適応システム)のが共同幻想の基本的な機序になりますが…。*「すべては<代入される空間性>」 *「「空白」と精霊とピダハンの言葉と」


       -       -       -

自閉症児ドナのこと


自閉症児ドナは、大好きなお祖父さんが死んで、それに納得するまで16年かかっています。ドナは自己確定できないお祖父さんの死に、別の理由をみつけて、怒りました…。
あるいは真実は逆で、ドナは大好きなお祖父さんと別れたくないために、その死を認めなかったのでしょう。ここでは、両眼視野闘争などと同じで、不可視なものを可視化することで心理的な安定を得ている…という機序と同じように防衛機制的な適応システムが働いていると考えられます。つまり、認めたくない事実を、別のもので代替してしまう、認識不可能なものに別のものを代入して認知を仮構してしまうワケです。


   ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。
   でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。
   21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。

   お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、
   それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。

   指示決定から自己確定まで16年間。

                            (*「自閉症児ドナのこと」から)

       -       -       -

   当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは
   「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。
   そこには死への理解や悲しみはありません。

                                           (同上)


「「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てた」という自閉症児ドナ。ここから、お祖父さんは死んでいて、そのことを自己確定して泣くまで16年の月日がかかっています…。

ここには関係への認識が存在の確認より先立っている事実がそのまま表象しています。
ドナにとっては、お祖父さんが自分を認め、肯定してくれることが、まず第一要件であって、そこからスタートするのがドナの世界(観)であることが推測できます。母子一体(自他不可分)の状態から成長(時間)とともに遠隔化していくのが正常な過程ですが、それに費やす時間的な量はさまざまなのでしょう。ドナには長い時間が必要だったのであり、自閉症はその意味では器質的な問題云々ではなく、心的現象論のように時-空間性の量質変化の問題として把握されます。(*「誰でもはじめは赤ちゃん」「はじまりは<自他不可分>」


 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
 母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が
 析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を
 考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたような
 イメージもあります。

                            *「『共同幻想論』・対幻想論から考える」


       -       -       -

           
自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

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2014年7月17日 (木)

シェアハウス的なもの=<大衆の原像>は現代をクリアするか?

みんなが生き、暮らしている、私的な空間(家族)と公的な空間(社会)の<純粋疎外>として提出されたのが<大衆の原像>。
「三人ぐらいでつくる集団」「そういうことでしか可能性はない」…と現代をクリアしていく方法を示しながら…「純粋ごっこ」ともいわれる思春期、青春期の心性に根ざした社会の可能性…シェアハウス的なトレンドに期待する巨大な思想家のリアルな思索…。憲法9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観が述べられていきます。

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現在の日本をどう読む、そのわかりやすい解『第二の敗戦期』

未帰還者となった吉本隆明さん。その半年後に出版されたのが本書『第二の敗戦期:これからの日本をどうよむか』。内容は「ぼくなんかが考える基本的なところ」。共同幻想への最後のアプローチであるハイイメージ論のスタートで現在の「情念」による「意味づけ」を「倫理によって作りだされた絶えまない説教」と「おなじ」と無効を宣言し、マテリアルとテクノロジーに託すスタンスを明確化(「映像の終わりについて」)。ラストに現在を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」(「消費論」)と示唆…。では、その解は? そのアバウトな応答が本書です。グローバリズムから<大衆の原像>をはじめ、わかりにくい現在が可視化されています。
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仲間で生き抜こうぜという本。もちろんひっきー&ニートOKでしょ。
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現代社会の解決はシュエハウス的なトレンドだけ? 2012/10/29

    By タマ73

Amazon.co.jpで購入済み

吉本隆明さん自身による“吉本ガイド”のように読める本。初期三部作(言語にとって美とはなにか共同幻想論心的現象論序説)のような理論的なものではな く、現代社会を乗り切るための、『アフリカ的段階』以降の思索が披露されています。“アメリカはオカシイ”からはじまってラストは“シェアハウスに期待す る”的な言葉…。シェアハウスという言葉は出てきませんが「三人ぐらいでつくる集団」に期待する、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッ シュが印象的なラストです。

フーコーを「まったく独立派だった」、シモーヌヴェイユを「単独者として自分の考えを述べていく」人と紹介。 「単独者」はもともとフーコーの言葉ですが、吉本さんにとってはひきこもりからフツーの人や思想家までつらぬく大切な定義。単独者同志が小さな集団を作 る…というと攻殻機動隊のスタンドアローンコンプレックスを思い出しますが、それっていいんじゃないかっと思えたりもします。

いちばん難 しい問題として指摘されているのが現在のネット社会を前提としたもの。先端技術のおかげなどで簡単に成功やお金に結びつく可能性とそのためにコツコツやっ ていく事がおろそかになっているという両極に覆われてしまっている社会について…。これらの現代の格差などの問題の解決は…政党をはじめインテリ?が何か (上から)指導したりすることにも否定的で“社会を変えるには下からがいい”と吉本さんの根本的な思想が炸裂してる感じで、元気です。

憲法9条をめぐる言葉では吉本さんの思想の最大の特徴である対幻想と共同幻想の差異からハッキリとした解釈がされ、9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観 が述べられています。

専門用語などがなくて読みやすく、しかも吉本さんの思想と現代社会の問題の解決の可能性がつかめる一冊といえます。『言語にとって美とはなにか』を「わらない」といったり、『アフリカ的段階』を「奇書」と呼んだりした人たちの感想はどんなものなのかな、と思いました。


          

               
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

著:吉本 隆明
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2014年7月10日 (木)

「イメージ論2.0」はマスイメージ論とハイイメージ論から

 マスイメージが『共同幻想論』の、ハイイメージ論が『言語にとって美はなにか』の、それぞれ現代版だという吉本さんの説明のとおりで、両方とも「イメージ」についての論考です。マスイメージ論ハイイメージ論はあわせて『イメージ論』として刊行されていました。そして「イメージ」を突きつめていけば、心的現象としての「イメージ」にその本質があります。

 政治という機能における国家論ではなく、言語の意味や概念を前提とする静態的な言葉でもなく、常時この瞬間にも生成しつつあるイメージとしての認識。思弁的な記号や象徴ではない、生き物ののレスポンスや感受性としてのイメージ…。それがイメージ論で探究されたもの。それは心的現象論の論考のとおり、モノゴトへの認識を構造的に媒介するものです。Mポンティやサルトルをはじめ多くの症例などエグザンプルを参照しながらイメージ=心像についての探究が展開されていきます。
 イメージについてラジカルな考察をしているのが『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」。そこでは、シンプルにまとめると次のような説明がされています。

   

  <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、
  それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
(*「ベーシックな『序説』 その5」から)

 極論すると…心と現実を媒介するのは自己の妄想であり、それは共同の世界のことでもある…ということ。
 ここで「妄想」とされているのは、ある症例をサンプリングしているからで、通常の人間でも「心像」として同じであることは変わりありません。

       -       -       -

 心理現象(心的現象)としてフォーカスすれば、哲学的な説明にもなりますが、イメージ(の表出)は形と本質の2つのリソースから成り立っています。もちろんイメージが生成するキッカケがあり、その認識を亢進させてくれるのは感情によるドライブ。
 行動経済学が経済行動は合理性ではなく心理現象によるものであることをフォーカスしたように、人間のあらゆる行動も営為も心的現象によるものであるのは当然で、錯覚などまで心理的なレスポンスとの整合性や必然性として把握されるようになってきたのが最近の先端的な認識。

 人間がある時、ある場所、ある条件で、イメージするとき、それはナゼなのか、それは何なのか?ということを、どこまでも問い続けたのが吉本さんの探究といえます。

       -       -       -

 あらゆるモノゴトが商品化する資本主義のなかで、商品は無限に増殖する指示表出=モノゴトとしてあります。それを享受する人間の自己表出の多様化をフォローしていく思想や倫理はすでに存在しない…。これがハイイメージ論の結論でした。そして、その結論からのリスタートそのものもハイイメージ論が示唆するもの…。

 無限に増長する資本主義に対して、理念的に枠(臨界点?)を提示して見せたのがアフリカ的段階『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。それは“自己幻想が共同幻想となりえた時代”への考察であり、現在、アートや文芸、症例などの中に垣間見えるそれらを<純粋疎外>概念として抽出するとともに、それを可視化させてくれる世界視線が示唆されていきます…。

  無限に増殖する指示表出=モノゴトに対して<純粋概念>を対置するハイ・イメージ論。この作業に並行して、有限な遡行であることの確信のもとに自己表出=個体への探究が『ハイ・エディプス論』『母型論』 として刊行されました。そして指示表出と自己表出、この二つへの探究が本来ひとつのものであり、しかも歴史的な(現実の)ものであることを証明するかのように『アフリカ的段階について』が発表されました。この自己幻想が共同幻想となりえた時代への考察はヘーゲルが〝歴史外〟としたそのものを〝歴史の初源〟として再把握するというものです。現在、共同化しうる自己幻想はアートや文芸として表出し、それはハイ・イメージ論のように把握されますが、自己幻想の表出が政治や権力たりえた時代への考察はプリミティブな世界への探究として刊行されたワケです。そしてもう一度自己幻想が自己表出のサイドから問われるものとして『芸術言語論』が発表され、1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」ともなりました。(*「現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』
から)

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2014年7月 7日 (月)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

           
ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
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第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

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2014年7月 1日 (火)

「イメージ論2.0」の可能性…!?

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吉本theory独解のワケ

独解、吉本隆明さん ― 心的現象論で読む世界といろいろな理論の可能性

 80年代にリアルタイムの分析をとおして現代そのものを取り上げたのが『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』。この2つの理論では吉本理論の初期三部作をベースにして、現在のテクノロジーとメディアによる特徴的な理論の拡張がはかられています。
 吉本さん自身の説明(『イメージ論』あとがき・全撰集7・大和書房)によれば以下のようなポリシーのもとに思索されたようです。

   マス・イメージ論は現在版の『共同幻想論』である。
   ハイ・イメージ論は現在版の『言語にとって美とはなにか』である。

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。
   そして、
   イメージの概念によって総合することで、普遍領域についての
   批評概念を目指したい。

 また、そこで生じる問題を自らハッキリと把握し、その追究に力が注がれています。

   ここでいちばん問題になったのは、言語と、
   わたしがかんがえたイメージという概念が、
   どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、
   はっきりさせることだった。

 その前提であり不可分でもあるラジカルな問題が『ハイ・イメージ論』の当初からの課題である「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」こと。これはCGへの孝察から理論が展開されて「世界視線」の概念へと到達し、大きな成果を生んでいます。
 そこでは視覚作用と想像作用によるイメージとが同致されて受容されることへの可否が問われ、哲学や心理学で問われてきた認識論への全面的で根本的な解答がなされます。

 この部分は基本的に『心的現象論序説』において詳細に孝察され、認識の障害や異常、あるいは感情や夢への分析としても既に理論づけされています。そのため『イメージ論』は全般的に『心的現象論序説』の演繹として読むことのできる内容になっています。
 逆にいえば、『心的現象論序説』の射程の長さや深さは予想以上のものであり、またジャンルや領域を超えたものであることがわかります。
 それが、ここで『心的現象論序説』をメインに吉本理論を解読していくことの大きな理由です。
(2004年11月04日)

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