「これはパンだよね?」を分解すると…自己表出・指示表出
指示表出や自己表出というものを考えていくつかエントリーしていますが、単語や品詞に則したものでは「<はこれねよ?パンだ>」で以下のようなものがあります。ちょっと考え手を加えて再掲?してみました。
「<文>が先か<単語>が先か」という問題ともラジカルに関係しますが、文を単語や品詞に分解してみる分かりやすくなります…。まず、そこで分かるのは…単語に分解してしまって、文という全体像がわからなくなると、個々の単語の意味も不明になる…ということです。
たとえば<これはパンだよね?>という日常的な言葉(文)から何がわかるのでしょうか…?
これはパンだよね?
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たとえば、
<は><だ><よ><ね>がどのような助詞なのか副詞なのかといったことはわかりません。
<これ>は何かを指示していることはわかりますが、何が指示されているかはわかりません。
<パン><?>が名詞と記号化した疑問詞だということがわかるだけです。
すると次のことがわかります。
<は><だ><よ><ね>といった助詞や副詞と思われるものは、文全体との関係がないと判断できないということ。
<パン><?>という名詞と記号は単独でも意味があるということ。
<これ>は指示代名詞で、助詞と名詞の中間のようなタイプだと考えられます。
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助詞や副詞は単独では意味が確定できない。
名詞や記号は単独でも意味がある。
代名詞はそれらの中間で、何かを示しながら示されたものが何であるかは不明です。
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基本的に言語は、この助詞から名詞までのグラデーションなかのどこかに位置づけられるというのが、吉本理論の根本にあります。
つまり、
この助詞から名詞までのグラデーションを主体の表出の度合いの差異と考え、そこに主体性を見出すワケです。
別のいいかたをすれば、パフォーマティブからコンスタティブへのグラデーションということです。
また、
名詞のように主体の表出としての価値はゼロでありながら、他者が容易に認識でき、共同性のコードとして機能するものがあります。
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吉本理論的には助詞や副詞が自己表出で、名詞は指示表出です。
助詞が遠隔化したものが名詞だとも考えられます。
主体の発声が客体化され、主体から完全に切り離されたものの典型が名詞だということです。
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ところで現実的な問題として、
<これはパンだよね?>の<は>の問題があります。
<は>は単なる助詞ではありません。
限定か主格か? <は>の指し示している属性はそのTPOや状況からしか判断できません。場所を捨象し、文脈を無視して言語や理論だけ取り出しても意味は無いワケです。
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たとえばアートとしてすぐれた表現というのは、名詞に助詞の意味をもたせるようなもので、それは享受サイドの鋭敏さ(読解力)も要求されるものです。
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