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2014年5月30日 (金)

来歴、知覚残効、純粋疎外

左右の手を合わせてみて、どちらの手がどちらの手をどのように判断しているのだろうか?という問題がありました。四肢構造云々ではその説明をすることができませんでしたが…。


左手をお湯につけ、右手を冷水につけます。
しばらくしてから、今度は両手をぬるま湯につけると…。
左手はぬるま湯を冷たく感じ、右手は熱く感じます。
同じ身体の手でありながら、両手はそれぞれまったく違った判断をしています。
これは一つの脳の判断でさえなく、両手それぞれが独自の判断をしているとも思えるものですが…。脳との問題はさておき…。

   同じ1人の観察者が、2つの逆方向のイリュージョン(錯誤)を同時に経験している…
   (『<意識>とは何だろうか?』第1章「錯誤とは何か」「1-神経生態学的あぶりだし」P13~14)


同じ「ぬるま湯」に対して「冷たく」と「熱く」のまったく逆の2つの判断がされました。
お湯で温まっていた左手はぬるま湯を「冷たく」感じ、
冷水で冷えていた右手はぬるま湯を「熱く」感じたワケです。
ぞれぞれの手は、直前までのそれぞれの手の経験を基準にして判断した…といえます。
つまり、これまでの<来歴>が現在の判断そのものを左右していることになります。

   陰性残効は…温冷感覚、聴覚など、さまざまな感覚で見られる…感覚神経系の働きの一般原則だ…
   (同上「3-雪が白いのはどうしてか」P25)


この時<来歴>は判断そのものを左右していますが、
それは同時(既に)に判断そのものを可能にしていることが前提になっています。
前回のエントリー「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」でいえば、「ルビンの壷」で壺を可視化させてくれる顔(あるいは顔を可視化させてくれる壺)…
つまりターゲットを認識させてくれるグランドといえるもの、大局的には認識をアフォードしてくれるもの…としての<来歴>があります。


   「来歴」とは、…
   知覚だけでもなければ身体だけでもなく、ましてや脳神経の活動だけでもない。…
   過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体である。
   (『<意識>とは何だろうか?』第2章「脳の来歴」「4-脳の来歴―順応について再び考える」P94)

来歴について…
五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」というマルクスの言葉は、
<来歴>こそが人類のあらゆる判断のもととなるものであることが含意された考察だともいえるのでしょう。


       -       -       -


さらには<来歴>をも超えた受容の仕方?というものさえ考えられます。経験では享受できない(来歴にない?)対象へのアプローチとしての独特のレスポンスです。“経験したものしか想像できない”という基本的な定義のなかで、経験していないものはどう処理されるのか…。たとえばモノクロがカラーに見える現象には、そのような感覚の臨界的なアプローチが垣間見えているのかもしれません。たとえば<世界視線>とはそういった認識だと考えられます。


 モノクロがカラーに見える現象が示唆するものとは…
 問題はどうしてモノクロがカラーに見えるのか? その理由です。
 


 これは誰でも無刺激の部屋に入ると30分くらいで幻覚を見てしまうという心理実験で確認されている現象と似ています。感覚に刺激がないと、刺激の元(原因)をでっち上げてしまう心理作用が人間にはあり、物理的に存在しないものを観念的(心理的)にフレームアップしてしまうワケです。これは人間ならではの、想像力などの源泉となる能力の一つだと考えられるものでしょう。
 モノクロの微細な模様(だけ)では見極めがつかない…それを見極めようと、モノクロの視覚像に価値判断として着色してしまう…というのが、この現象の機序だと推論することができます。「モノクロをカラーにする<心>とシステム」


たとえば、これが「クオリア」と呼ばれる現象の実態です。


このような人間ならではの認識のシステムが、すべてを可視化していく(という幻想の)可能性を可能にしてくれる自己言及的な、べき乗化した観念としてある…といえるのではないでしょうか。人間の動物とは違う属性、過剰ともいえる何かがそこにはあります。


       -       -       -


「同じ身体の手でありながら、両手はそれぞれまったく違った判断」をしてしまうようなイリュージョンも、どこでもいつでもありうるものでしょう。それと同じように、何も判断できないという状態も日常的にもありうるもの。絶え間なく行使されているさまざまな判断、無意識に行われるあらゆる認識のベースに、この何も判断できない状態が想定できます。たとえば、ある判断からその対極にある反対の判断に移行するときには、その中間点のどこかに判断できない状態が特異点としてあることが類推できます…。判断できない・しないという状態こそが、次の判断への準備として、あるいは次の判断のグランドとしてあるのではないでしょうか…。


自分と同じ体温のぬるま湯に入ったとすると何も感じることができずに、水圧や水流といったものがなければ一瞬自他不可分の状態になります。何も判断できない状態です。これが<純粋疎外>のひとつの例です。認識が対象に対して自他不可分となり、何も認識(しない)できない状態になっているワケです。あらゆる状況と状態でこの<純粋疎外>は認識の過程として日頃から通過している特異点だと考えられます。「はじまりは<自他不可分>」


こういった<純粋疎外>状態や、知覚残効の錯合した状態として、たとえばデジャブが考えられます。


2014年5月 5日 (月)

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

絵の中央に壺があります。壺に注目すれば、壺が見えます。しかし、注意を壺の両側の空間に向けると、そこには人の横顔が見えます。向かい合った二人の横顔が見え、壺だった部分は二人の顔に挟まれた空間に見えます…。このような錯覚や錯視のサンプルとして有名な「ルビンの壷」という絵や画像に代表されるような現象?に、人々は、さまざまな場面で出会っています。現実には、そういった<現象>を自覚することは少なく、だからこそ錯覚や錯視といったイリュージョン?は自覚的には認識できないものとしてありふれているのでしょう。そもそも自覚できないからこそ錯覚であるワケですが…。その最大のものが、国家や神であることは繰り返すまでもないことかもしれません。つまり共同幻想であり、public-illusionです。

問題は、そのようなイリュージョンそのものではなく、イリュージョンを成立させているものは何か?ということ。一つ一つの個別のイリュージョンを解明?したところで、あまり意味はなく、それが絶えず再生産?されるその仕組みそのもの知ることが大切だと考えられます。誰もが壺と顔を認識できるという、その理由。そしてわかっていてもそう認識してしまうというその理由…といった認識の構造そのもの…。

       -       -       -

   電話では300~3400Hzの帯域しか伝送していないのです。
   300Hzくらいから下の周波数は、すべてカットされています。
   ところが、男性の声の基本周波数というのは100~150Hzくらい…
   それなのになぜ、男性の声が…アクセントや抑揚がちゃんと伝わったりするのでしょう?
   …
   これはまさに、実際に聞きとっている周波数成分から、
   聞こえない基本周波数を割り出し、音の高さを認識しているからなのです。
         (『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P150)

 電話の伝送において物理(学)的には存在しえない周波数の男性の声が、どうやって「男性の声」として聴き取ることが可能なのか? 
 その理由と結論はあっけなく、「実際に聞きとっている周波数成分」から「聞こえない基本周波数を割り出し」て、音の高さなどを想像して認識している…ということになります。そして「知覚しているものは物理的な音とはちがうということです」『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P185)と結論されています。


           
空耳の科学 ~だまされる耳、聞き分ける脳~

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   幻覚と空耳は明らかにちがうものです。
   大きなちがいの一つは、再現性にあります。
   空耳は、個人差はあるにせよ、同一の人には何度でも同じ現象が起こります。
   物理的な情報に対して、同じ知覚が起こり、対応関係があるということ。
   また、個人差はあるにしても、だいたい誰もがそう感じるような一般性がある。
         (『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P186)

 『心的現象論序説』をガイドするかのようなシンプルな事実が明解に説明されています。
 また、この「一般性がある」というのは『心的現象論序説』における「一般了解」そのものともいえます…。
 恣意的で思弁的なナントカ論では未だ到達しえないような現象も、最近のすぐれた知覚心理学認知神経科学の分野では、あるレベルの結論を得つつあります。それは吉本隆明氏の、解剖学と弁証法をベースにした30年以上の思索が探りあてた心的現象の世界をめぐる論考のエビデンスともなるものです。

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 「ルビンの壷」でいえば、「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
 このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。

   …概念の意味内容としては意識の理解が無意識の理解に先立つのに、
   知覚の構図としては無意識的な、
   あるいは意識の周辺の背景(地)なしに意識(図)は生じえない…
            「意識と無意識のありか」「無意識とは「来歴」の貯蔵庫である」P205)



           
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 この無意識や非知覚領域、非感覚領域といった人間の認識(観念)が言及できない領域こそ、認識一般を可能にしてくれるグランドであり、それそのものが「共同観念の世界の代同物」(『心的現象論序説』Ⅶ「心像論」P281)といわれる認識で…“<心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>”を生成していくもの…と考えられます。

 「概念の意味内容」と「知覚の構図」は、現存在分析まで遡行すれば『心的現象論序説』における自己抽象と自己関係という概念装置?(方法として)になります。

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 結論をいうと、自己抽象と自己関係の、この2つの系から人間の個体は構成されていきます。
 これらは自己表出と指示表出として言語(世界)を構成します。言語が主体の表出であるとともに世界そのものであるという矛盾?がここに生成してしまいます。

 『母型論』における「言語の陰画の状態」というものは、ある意味で認識一般を可能にしてくれるグランドであり、「壺」への認識を補償してくれる「顔」の領域(というもの)との経路でもあるハズです。

   言語の陰画の状態はさまざまなあらわれ方をするが、
   いちばん大切なことは、いつどうして陰画は言語の
   陽画(言語そのもの)に転化するのかということだ。
   この過程がどんなに困難でさまざまな障害を伴い、
   全うすることが稀な過程かを今も表象しているのは、
   分裂病と病者の存在そのものにほかならない。
   分裂病こそが言語の陰画が言語の陽画(言語そのもの)に
   転化する過程の病気として発生するものにほかならないからだ。
                         (『母型論』「病気論Ⅱ」P90)



           
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