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2014年4月26日 (土)

<文>と<単語>と自己表出、指示表出

 <文>が先か<単語>が先かという問いがあります。
 人間が発話する時に、あるいは文章を書く時に、<文>と<単語>のどちらが先立つものとして現れるのか?…ということを問うラジカルな問題です。
 吉本隆明氏の理論でいえば、<自己表出>と<指示表出>の問題になります。

 自己表出(認識)があり、それを他者にとって受容(理解や伝達)可能なものとして指示表出とする…という順からすれば<自己表出>が先であり<指示表出>が後ということになります。
 これが<文>が先で<単語>が後…といえるものでしょう。
 文にしたい認識(イメージ)があり、それを他者にとって理解可能な単語で構成していくのが文である…というシンプルな事実がそこにはあります。

 伝えたい思い(自己の認識)を、伝わる表出(指示するorされるもの)で伝えていくわけです。
 文意を伝えるために、適した単語を選んで文を構成していくわけで、日常的に誰もが自然に営んでいるものといえます。
 文法は、この時に単語を組み合わるパターンや法則性でしかなく、自然法則と同じで現象の反映以外の何物でもないでしょう。文法が先にあって、それに合わせているわけではないからです。理論や法則があって現象がそれに合わせているわけでないのと同じで、現実と理念の関係は混同されたり逆転するわけではありません。ただ人間の側からの<働きかけ>が自然過程に変化を生むことはあるということでしかなく、それはマルクスでいう<労働>の意味となります。もちろんこれが<美>(『言語にとって美とはなにか』)のもとであり創作にあたるものでしょう。正確には享受の能力?も問われますが…。

   誰も文法を顧慮して言語をつかうのではなく、
   すでにつかわれた言語の状態が、
   文法をかんがえさせるのだ。

        (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P71)

 以下のような疑問を持たれる方はいるようであり、表出についても文法についても、ほとんど意味はありませんが、その理由のほうが興味深いものかもしれません。

  指示表出-自己表出という概念が、
  そのまますでに十分複雑な文法構造をもつ言語における品詞の集合に適用されるのは、
  論の運びとして性急というしかない…

                                (『吉本隆明 煉獄の作法』宇野邦一


 当たり前のようですが、ソシュールを臨界まで細密に検討し、しかも、その意図にそって既存の言語論の内破までを目指したのでは?と問いかけるハイイメージ論では、自己&指示表出について以下のようにシンプルに指摘されています。

   どんな品詞的な区別も、
   指示表出と自己表出の差異系列の錯合体として、
   連続的な差異を内包している…

           (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P78)

 さらには歴史上の階程まで意識し、その時点での“いま”(言語のリアリティ)を指し示すクリティカルとしては以下ようなハイイメージ論らしい指摘があり、“現在”を知るための手がかりとなります。

   言語の自己表出は、通時的には増大する一方のようにみなされる。
   しかしある時代のある言語の場面をとれば、
   そこでは自己表出の通時的な絶対値が問題になるのではなく、
   それぞれの言語の共時的な相対値だけが、その言語の自己表出とみなされ、
   また言語を発したり、書記したりしているそれぞれの個人は、
   ひとりでに自己表出の差額値を言語の自己表出とみなしていることになっている。

                              (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P96)

 「自己表出の差額値」をもたらすものが流行であったり時代の<何か>であることは確実であり、その点でこの指摘は大変ラジカルで鋭いものになっています。前提としてマテリアルと化した、あるいは下部構造と化したものが想定され、それは共同幻想そのものやラカンの象徴界的なものをも含意していると考えられます。ここには<固有>というレベルのもの、人間の個性などといったもののヒントがあるといえるでしょう。

 自己表出と指示表出は現存在分析まで遡行?すれば、自己抽象と自己関係を初源としている表出。チュビズムな生物としては内臓系と体壁系に由来する認識三木成夫)に解剖学的に到達するもの…。
 身体というマテリアルに還元できない観念を、ギリギリまで身体に還元しつつ、言語を観念の系?として、その由来をどこまでも遡行しようとする思索が吉本隆明氏の思想そのものであるのかもしれません。

 観念や心、その表出である言語…といったものへのアプローチは個別科学を超えてある種の成果を見出すことができ、その実証の積み重ねでも心的現象論などのエビデンス?となるものはスタンス次第で見つけることが可能かもしれません。それは逆に吉本隆明読解の方法そのものが問われる問題でもあるのでしょう。

2014年4月 2日 (水)

<大洋>のTPOとしてのデジャブ…『母型論』

   素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、
   筋肉の動きからくる感覚の触手とは、大脳の皮質の連合野で交錯し、
   拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。

   この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、
   その代りに内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、
   感覚器官の感応のすべでを因子として包括していることになる。

                                (『母型論』「大洋論」P49)

 「内臓系の感受性」「筋肉の動きからくる感覚」(体壁系の感覚)という三木成夫の解剖学からの知見を援用しながら、それが脳において連合し認識となるときに<大洋>のイメージを生成することが説明されています。指摘されていることの重大さと、それに反比例するかのようなあまりにもシンプルな事実関係が示されていますが、思弁的で過剰な論理の再生産を繰り返し何もアプローチできていないよくある分野などの言説とは違って、真理へのダイレクトな言及は吉本理論ならではかもしれません。心的現象論の本論でも序説でも多くの具体例や症例といったもの、あるいは実験や実証の論文が参照されていますが、そういった認識に関して実証やテストを積み重ねてきているような分野(知覚心理学認知神経科学)では、このような吉本理論の基礎的な部分と同じ結論や仮説に達しつつあるのも事実です。

 上記の引用は胎児の状態(代謝的な関係)から離脱し、生存のすべてを授乳に依存するようになった乳児と母との関係から考察されたもの。母は対象化され、母と乳児(自分)との関係がすべてである状態。そこでは赤ちゃんがリーチングして母と乳房をまさぐり、授乳し、といった過程で発揮される「内臓系の感受性」「筋肉の動きからくる感覚」の世界です。母体への肌触り、母乳などへの嗅覚味覚、それらによる生存の欲求の充足…。ここに性と関係の原点を見出している吉本理論の基礎的な部分と、それが言語の生成や獲得となっていることを探究する『母型論』の基本があります。

 簡単にいえば空腹という生存をかけた内臓系の欲求があり、それを満たそうとする懸命に母を探し乳房をまさぐる触覚をともなう筋肉の運動があり、授乳するという嗅覚味覚による享受があります。内臓系の感受性を動機とし、体壁系の運動と触覚による感覚的なリーチングがあり、そして味覚や嗅覚による享受…。これらの約1年間におよぶ反復が赤ちゃんの生命を支えています。

 この赤ちゃんの生と営みをフォローしている母型的な大きな枠組は、反復することによって赤ちゃんにラジカルな規範を与えてもいます。そしてこれらがその人間個体の原型を形成していく基礎になるもの。個体にとっての価値や意味は、生命(維持)の営みであるこれらの反復が臨界に達しステージがアップする…ということの過程で獲得あるいは生成し定着していきます。それはリニアにおこなわれるものではなく、各パートや領域において入れ子構造単位で、しかも部分も全体もなく行為され、その特異点としてある個体が想定されるのではないでしょうか…? さらには個体の属性はあるTPOにおけるものなので、TPOのズレによって変異するとも考えられます。その象徴的なものが転地療法による統合失調症からの快復であり、日常的には気分の転換のようなことでしょう。あらゆる認識が例外なくこのTPOによる規定を受けています。たとえばそのエビデンスの一つが、初源のTPOである大洋に育まれていた頃の認識がデジャブとして感受されることです。

   この拡張された大洋のイメージは、言語に集約されるような意味をもたず、
   それだけで意味を形成したりはしない。
   だが、それにもかかわらず心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ
   前意味的な胚芽の状態をもっている。

                                 (『母型論』「大洋論」P49)

 「内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべて」と「感覚器官の感応のすべて」を「因子として包括している」とされる「大洋のイメージの拡がり」は、「言語に集約されるような意味をもたず」「それだけで意味を形成したりはしない」が「前意味的な胚芽の状態」であるとされます。

 <イメージ>というもののマトモな定義そのものがほとんどなされていない思想や哲学ほかのさまざまな言説の中で、わずかな手がかりを参照しながら吉本理論の思索はほぼ唯一のブレークスルーを成し遂げていきます。
 ポスモダニューアカと呼ばれたなかには良質の言辞もあり、可能性の中心を見出すことが不可能なワケではありません。『自己・あいだ・時間』木村敏)などに先進的な探究があったことが示されてもいます。そこには「分裂病こそが言語の陰画が言語の陽画(言語そのもの)に転化する過程の病気として発生するものにほかならない」(『母型論』P90)という吉本隆明氏の鋭利な指摘に準ずるものを見出すこともできるでしょう。

  純粋な差異化のエレメントとしてノエシス的な自発性の動きというものがあると考える。
  それがノエマ的な自己に逆規定されてはじめてノエシス的な自己になるのだと。
  この、自発性の場における差異化の運動というものは、まさしくスキゾフレニックな運動そのものですね。

            (『逃走論』<対話>「ドゥルーズ=ガタリを読む」P92今村仁司浅田彰

 

           
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