<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』
ソシュールやラカンの<シニフィアン>を臨界としてラジカルな評価をしながら、そこに(動因としての)<神>や<父>ではなく、意味を形成していくものとして<大洋>を想定するのが『母型論』です。
そこではシニフィエを呼び込むための素因としてのシニフィアンとは何か?と検討されています。ここで吉本隆明氏の科学者としての才能と詩人としての素質が、本来蓋然性でしかない科学(サルトル)を超えてある方法にたどり着いていくところに、この思索者が最大の思想家といわれるそのものであるかのような姿を確認できます。
シニフィアンははじめから何ものも意味する可能性がないものとして設定すれば、
それは科学的な素因ではありうるだろうが、
外界はすべてのっぺらぼうの自然界という以外になくなってしまい、
物質の自然を対象としてつくることができなくなる。
(『母型論』「大洋論」P47)
これは吉本隆明がマルクスに対してもっていた唯一の、しかしラジカルな批判と同じもの。もっと広げていえば、思考するときの陥穽として必然的にともなう抽象化のワナに対する警鐘?になっています。具体からの抽象と、その論理化により理論(科学)は生成しますが、当然それはまったく現実とは異なるもの。どんな優れた理論も現実そのものではありません。科学的な認識あるいは論理上のものでしかない「のっぺらぼうの自然界」に人は生きているわけではないからです。具体から抽象して概念装置へ上昇する科学は、その逆に現実に向かって下降する方法も備えていなければ意味(価値)はないもの。このことまで意識されて書かれたものは「資本論」くらいしかなく、「資本論」の読解にはそれが担保されています。
母型論
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上記の『母型論』本文の引用の10行ほど前にあるのが以下のテキスト。
母音がそれだけでは意味をなさない音声の波であるように、
母音の波の拡がりであるイメージの大洋は、
意味をもたず、言語ともいえない世界なのだが、
それにもかかわらず言語優位の脳で感受されるとともに
意味(前意味といってもよい)をもってしまう特異な領野に当面している。
(『母型論』「大洋論」P47)
この「それにもかかわらず言語優位の脳で感受される」というのは日本人の脳に特有の属性で角田テストで実証されたもの。その後の大脳生理学や脳神経学でも日本人の言語脳が“言語獲得以前(廃用性萎縮以前?)”は言語獲得にいちばん優れているということが確認されています。また1つの母音だけでも意味を与えられていることが多い日本の特殊性は際立っていて、欧米語圏だけではなく中国語や朝鮮語にもないもの。母音一つでも意味を見出だしているということは、虫の音や風の音など多くの自然音にも意味を見出していることが考えられます。別のいい方をすればそれらの音を言語として捉えているワケです。ここに言語生成の原領域あるいはシニフィアン以前というものの可能性の思索をめぐらせた吉本隆明の探究は圧倒されるものがあります。
日本人は母音の方は左の脳が優位になり、純音は右の方が優位になる。
「母音」と「純音」の脳のとらえ方がちょうど左右の脳で対称的になるんですね。
そこで母音は確かに言葉の音として使えるということで研究を続けてきたんです。
(『音楽の根源にあるもの』「音感覚と文化の構造」小泉文夫・角田忠信P226)
コオロギの「コロコロ音」は日本人は全部、母音と同じように
言葉を解する左脳の方で聞いてしまうわけです。
西洋人は、右脳の方にいっちゃうのですね。
彼等は雑音を処理する脳の方で聞いている。
(『音楽の根源にあるもの』「音感覚と文化の構造」小泉文夫・角田忠信P230)
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さらに『母型論』ではソシュールやラカンのシニフィアンの概念と比して<大洋>の概念が説明されています。胎児にとっての羊水を意識したかのような<大洋>の概念は『母型論』の基礎でもあり起点でもあるもの。しかし原生的疎外や純粋疎外といったタームと比べても理解しやすいというよりは、その反対のような印象があります。実際にソシュールやラカンを援用しながらの説明は、その伝達のし難さのためかもしれません。純粋疎外は原生的疎外のベクトル変容である…といった確定記述が困難な概念です。
ひとロに「神」の代りに擬人化され、
命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、
「父」の代りに胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、
わたしたちの大洋のイメージがある。
そしてわたしたちが設定させたいのは
前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し、
母音の波をそのなかに含み拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。
そのために完全な授乳期における母と子の心の関係と感覚の関係が
織り出される場所を段階化してみなくてはならない。
(『母型論』「大洋論」P48)
空間的に確定記述が困難な<大洋>の概念ですが、それは同時に通時的な位相にこそ特徴があることを示してもいるといえます。変化そのものを表現や定義しようとするときの必然です。そこで吉本隆明氏ならではの基本的なアプローチとして「段階化してみなくてはならない」という方法がとられます。ヘーゲルやマルクスの基本的なスタンスが活かされていきます。
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