母音も虫の音も言語野で聴く日本人とポリネシア系…
日本語では母音の「あいうえお」のどれにも意味ある言葉をあてはめることができる…
ポリネシア語にもこの特徴があるが、そのほかに近隣の言語でこの特質をもつものはない…
日本人とポリネシア語圏の諸族だけがこおろぎの鳴き音を脳の言語優位の半球で聴いている…
(『母型論』「連環論」P41から)
以上は『母型論』で吉本隆明氏が角田忠信氏の『脳の発見』から援用しているものです。
かんたんにいえば、自然音と声が同じように感受されることが日本語やポリネシア語の特徴として説明されています。単なる母音に意味を見出し、単なる虫の鳴き声も言語野で聴く日本人やポリネシア人。そこには子音の微妙な発音(の差異)に意味を見出すインド・ヨーロッパ語などとは異なる言語感があります。単なる発声でしかないようなシンプルな母音にも意味づけをする日本人やポリネシア系の人々。これらは何を示しているのでしょうか。
脳の発見―脳の中の小宇宙 (日本語・日本人シリーズ)
著:角田 忠信
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発音の仕方に左右されないということは、対象となる音声の質に左右されることなく感受することが可能なことを意味しています。相手の発音(あるいは自然音の属性)に左右されない感受性…。吉本理論で重視される主体としての受動性には、人間の原点でもあるその在り方そのものの大きな可能性がありそうです。(受動性のファクターとして考えられるものの一つは、セロトニン・トランスポート能力が低いs遺伝子の多さやドーパミン第四受容体多型の少なさというポリネシア系の遺伝的特徴があります。*「セロトニンとドーパミン」 そしてその生体のシステム(*「ポリリズムと自然音と人声と」) に還元できない特徴や属性への探究として心的現象(論)があるワケです)
吉本理論の文脈でいえば、そこには、指示表出と自己表出(指示決定と自己確定)に分岐?する以前の音からも感受しているといえるものが示されています。別のいい方をすれば、規範と意味(概念)の渾然一体となったものを自然音や母音に見出しているともいえます。極論すると、日本人やポリネシア人のこの特徴は、すべてを自己表出だとするような繊細?な感性の現われでもあり、そこに人間という現存在の直接性の意味や価値=美があるのかもしれません。
ある種、どんな自然音からも意味を見出せるなら、それは、どんな自然音を模倣してもコミュニケーションができる…ということを示唆しています。たとえば以前のエントリー*「規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族」で取り上げたピダハンの言語がそれです。「「環境との緊張関係がないために対自意識そのものが表出すること」…つまり自己関係性の空間性がダイレクトに規範を生成する」と書きましたが、これは自然と自己の不可分性でもあり、以下のように吉本隆明氏が指摘するものに関係があると考えられるものです。
旧日本語的な特性は、個体の言語の発達史からいえば、
乳児期の「あわわ言葉」を離脱した直後の言語状態に対応している…
(『母型論』「起源論」P204から)
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