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2013年6月28日 (金)

心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>

『心的現象論序説』は個別科学ではなく、すべての認識が個人の心的な現象であるという当たり前の原理からズレることのないトータルな認識論だといえます。それは初期3部作のなかでも特異な記述から明らかかもしれません。序説への最も難解な書という評価は別として、序説には共同幻想と言語のパートがあるのですが、逆に『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』には心的現象に関するパートがなく3部作相互の関係のなかで序説の特異さが際立っています。

個体の心的現象からアプローチする共同幻想と言語…以上を踏まえると共同幻想論と言語美における主題への理解に隙がなくなります。またそれらへの序説ならではの整序された解説は吉本理論への全般的な理解を深めてくれるもの。個人的に、『心的現象論序説』から読みはじめたために、偶然?にも、すべての認識が個人の心的な現象であるという当たり前の原理からズレることはなく読解が進めたのはラッキーでした…。

なぜか有名なアンファンテリブル氏が「全然わからない」と評した『言語にとって美とはなにか』ですが、数多い吉本隆明氏の著作の中ではもっとも簡明な論述のものとの判断は少なくないと思われます。言語美では自己表出と指示表出などが代表的なタームとして登場しますが、『心的現象論序説』の「心的現象としての発語および失語」ではその原理的で包括的な考察がされ、<自己表出>と<指示表出>のもととなる<自己抽象>や<自己関係>などが解説されています。これらは認識の初源(から)の問題です。

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,000
価格:¥1,000

   

       -       -       -

『心的現象論序説』「Ⅴ心的現象としての発語および失語」の「1心的現象としての発語」では言語のラジカルな原理がガイドされています。

子どもは言葉を覚えるのに、親をはじめとした周囲の人間(先生、友だちなど)から学びます。それは子どもにとって先験的にある言葉を受け取っているわけで、この時言葉は規範として機能しています。子どもは言葉で表現しなければ何も成し得ないことを知っており、当然のことですが、表現するために言葉を習得していきます。ここに表現としての言語と、予め他者(外部)に存在する言語…という2つの言語(の位相)の特徴がみられます。表現は自分のためにするもの、他者の言語は既に決められているもの。『言語にとって美とはなにか』など言語論で自己表出と指示表出といわれるものの出自がここにあります。心的現象としては認識の過程を含意して自己確定と指示決定という説明にもなります。

   P151(改訂新版『心的現象論序説』角川文庫初版)
   言語はふたつの構成的な因子をもっている…
   ひとつは表現としての言語、もうひとつは規範としての言語である。

   表現として言語をみれば、話され書かれないかぎり言語は存在しない。

   規範として言語をみる…
   それぞれの民族語に固有な音韻、韻律、文法などが抽出できるような
   共通性のうえにのみ存在し、各時代を通じてゆるやかな変化をこうむりながら、
   遂に人間の発語自体にたいして規範としての作用を発揮するようになる。

「規範としての言語」と「表現としての言語」については「ベーシックな『序説』 その3」で書きましたが、心的現象論序説のこの1パートに共同幻想はもちろんあらゆる認識の初源が簡明にガイドされています。

「規範としての言語」=<指示表出>はいちばん心的な<環界>でもあり、マテリアルな環界も含めて資本主義が生みだすすべてのものを対象=資本主義を指示表出として批評したのがハイイメージ論になります。子どもが親などから規範としての言語を受け取るように、人間は資本主義社会からさまざまなものを受け取り、それはある意味で規範化してもいます。国家、法、流行、商品…。商品アイテム数が人間のキャラの多様性に対応しているなど社会学?的な指摘はいくらでもあるでしょう。

最終的にこれらも含めて「言語の概念をイメージの概念に変換することによって三部作に分離していたものを総合的に扱いたい」と意図されたのがハイイメージ論です。ハイイメージ論がイメージ=心像として結果するものを形態、概念、規範の生成を要素としつつ、純粋疎外を媒介としてトータルな認識へと変成されていくその過程を、資本主義の全生産品の対象としたところには、吉本理論の無限ともいえる可能性があるかもしれません。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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まるで言語が存在することは自明であるかのように考察する言語学者に対して、言語は「しゃべられ、文字に書かれないかぎり存在しない」ことを強調する吉本隆明氏。他方では創作というものが自由であるかように誤認している文学者について「言葉の表現には、どんな規範も存在しないかのように振舞っている」とも指摘します。「表現としての言語」と「規範としての言語」という言語の2つの位相への、どんな曖昧さも許さないいつものスタンスから言語への考察もはじまります。

この『心的現象論序説』での言語へのアプローチがラジカルなのは、タイトルの通り「心的現象としての発語および失語」という言語現象の両極を捉えているところからもうかがえます。有と無から存在を語るように、言葉がその有と無、発語と失語から考察されていくわけです。

規範としての言語は共同幻想の生成と不可分ですが、そのためにこそ明確に峻別されたアプローチが必要となるもの。『言語にとって美とはなにか』では共同幻想は<社会的幻想>と呼ばれており、その呼称の差分に含まれるものは小さくはないのではないでしょうか。また共同幻想そのものは心的現象論では<幻想的共同性>とされています。

       -       -       -

「規範としての言語」と「表現としての言語」という言語の2つの位相は吉本理論ならではの結論として以下のように簡明にまとめられています。

   P152(同)
   表現としての言語と規範としての言語とは<逆立>しようとする志向性をもっている。

「表現」と「規範」が<逆立>するとされるのは弁証法的に両極が把握されている認識の構造そのものですが、特に理論としてのオリジナルティは「<逆立>しようとする志向性をもっている」ことが指摘されていることでしょう。この志向性の動因となるもの、力動をもたらすものは何か?…ある意味で共同幻想も世界視線もその結果でしかない…のですが、それこそが吉本理論の全編を貫くものとしてあると考えられるものです…。

   P153(同)
   心的にみられた自己表現としての言語。いいかえれば<概念>を構成する方向に志向する心的な
   構造は、対象に対する空問化度を知覚作用からかりることはありえないから、ただ対自性そのもの
   を空間化度に転化するほかはない。したがって<概念>の空間化度はまったくの恣意的でありうる
   とかんがえられる。

ファンクショナルにいえば「自己表現としての言語」は他者に伝える必要がないために予め共通性を捨象しうるということにもなります。読解コード(共通性、共同性)を必要としない言語。吉本が大きく影響された三木成夫の解剖学的には内臓感覚を受容性とするだけの、あるいは内コミュニケーション的な…言葉であるといえるでしょう。この属性のまま臨界まで常同反復を繰り返しついには共同性を獲得してしまったのがアートであり、芸術言語論が「芸術」と形容される意味がそこにあります。「対象に対する空問化度を知覚作用からかりることはありえない」という指摘は最重要なもので、共同幻想論では他界論を支えるファクターであり、日常では夢のいちばん根本的な属性でもあるでしょう。このことから逆に他界、夢、概念が一つのものであることがわかります。それはイメージというものがどれだけマテリアルに対して自由かという問題にもなります。想像力の問題であり、世界視線が生成する機序そのもののことです。

   P154(同)

   …言語にあらわれる心的な障害は、どんな多種多様な現象形態をとるとしても、本質的には
   <概念>構成へ向かう心的志向性の障害と、規範としての言語についての心的な障害とに
   わけることができるものである。

「1心的現象としての発語」は「2心的な失語」の前段であり、主旨としては精神疾患をサンプリングしていて、患者の言語のコワレ方から言語の発語を遡行し探索していくというものです。心的な障害はさまざまなようですが、結論はシンプルで、<概念>構成の障害か<規範>についての障害かのどちらかになります。認識の根源まで遡行すれば<ワタシはだれ?><ココはどこ?>という哲学?の起点でもあり、あらゆる生き物にとって生命活動の原点でありスタートでもある場所的限定=TPOの問題だといえるもの。自己は問いそのものであり、指示は環界そのものになります。自己を自己たらしめるのは自己への問いであり、指示(表出)を指示(表出)たらしめるものは対象との関係性そのもの。最も抽象化されたレベルでは自己抽象と自己関係を根源として定義?されています。

       -       -       -

「話され書かれないかぎり言語は存在しない」というマテリアル?な認識は、言語や認識の自由のために場所的限定を回避しようとしながらも紙やペンがないと手紙が書けないことを重視したらしいデリダへの理解として東浩紀氏が認めるものと同じもの。こういったスタンスはほとんどの場合に常識といったものや逆に専門家というものが見落とす側面でもあり、それこそが吉本隆明氏が常に思索の起点にしているものではないでしょうか。

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