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2013年5月18日 (土)

「空白」と精霊とピダハンの言葉と

私のうしろに空白があって、いつでも同じ距離でついてくる。
2~3mうしろに電車の中でも雑踏の中でもついてくる。
雑踏をぬってゆくと、それも同じ間隔でついてくる。

やりすごすとすれば立止ってしまう。
歩き出す気配もない。
仕方なくふみ出すと、また一緒に追ってくる。
ふり向けばふり向いた角度だけ位置をずらせてしまう。
感覚的には何もないのにやはりついてくる。
逃げようとしても糸を張ったようで逃げられない。
しまいに私は自分の意志ではなく、
それの意志によって歩いているのではないかと疑いはじめる。
それははじめから私を知ってつかんでいる。
そして私の中に疑惑と恐怖をもたらし、
収拾のつかぬ混乱におとしいれようとしている。

    ‐    ‐    ‐    ‐   ‐   

「見ろ!やつがいる、Xigagaiイガガイーだ、精霊だ」

「そうだ、見えるぞ。おれたちを脅している」
「みんな、来てイガガイーを見るんだ。早く!岸辺にいるぞ!」

わたしは深い眠りから揺り起こされた。夢を見ているのか、実際にこんな言葉のやりとりを聞いたのか、はっきりしない。それは八月の土曜日の朝、一九八〇年の乾季のことだった。

彼はわたしの右手に立っていて、力強くて茶色い痩せたその体は、見ているもののせいで緊張にこわばっていた。
「あそこにいるのが見えないか?」彼はじれったげに切り返してきた。「イガガイー、雲の上の存在が川べりに立ってこちらに叫んでいる。おれたちがジヤングルに入ったら殺すと言っている」

「どこだ? 見えないよ」
「すぐそこだ!」一見何もない川辺を凝視しながら、コーホイは言い放った。
「川向こうのジヤングルのなかか?」
「違う!あの川べりだ。見ろ!」コーホイはいらだちをあらわにする。


「私」を疑惑と恐怖に陥れそうな「空白」と、「おれたち」を脅かす「精霊」の物語。前者は『心的現象論序説』の、後者は『ピダハン』のテキストからです。いちばん難解だといわれる理論に援用された精神病の症例と、いちばん難解な言語のピダハン族のドキュメント。この「私」や「おれたち」といった主人公=人間をどこまでもいつまでもストーキングするような不気味な存在は、いまも先進国であれジャングルの中であれ、どこにでも存在し人間を脅かしています。聖書の中では文字通り「リヴァイアサン」とも呼ばれ、史上最強の怪物にたとえられています。しかし、それは姿や形や性質が恐ろしいからではありません。どこまでも、いつまでも人間につきまとい永遠にストーキングしてくるというだけ…。おそらく宗教はそこに戦いを挑んだと思われますが、その宗教自身がそれになってしまうだけだったというトートロジーと悲劇のトラップがあり、この悲劇をただ笑い飛ばすことができたのはマルクスだけだった…という可能性があります。スキゾキッズとはその可能性にかけたはずの寓話の主人公でしたが…。

この「空白」や「精霊」と同じ根拠のものが大きな隠れ?テーマとなっているもう一つの本があります。ジョージ・オーウェル『1984年』。そこでは人間の自由な思考を奪うために使用言語が制限されていくような世界が描かれていますが、ぎょっとするのが“5本の指が6本に見えるか?”という権力による詰問のシーン。マテリアルに5本ならば、それは5本としか認識されないのが当然ですが、ここではやがて6本に見えるようになることが示唆されています。主人公を詰問する官僚は言います。無理にではなく、嘘ではなく、自然に6本に見えるようになる…。本当でしょうか…。

5本の指が6本に見えるか? しかし、その可能性は本当にありうるもの…。たとえば一方の目では視えないものが、他方の視えるほうの目の認識を借りて「視える」と合理的ウソをつくことは実験でも確認されています。それどころか、前述のピダハンの例のように「わたし」(著者ダニエル・エヴェレット)には見えませんが、「コーホイ」(ピダハンの一人)たちピダハンの誰にでも見える「精霊」といった“事実”があります。もちろんこの事実は論証も反証も不可能かもしれません…。それでもそういった認識の上にピダハンの世界が成り立っているという現実があるわけです。強い共同性(集団としての強制力)が無いとされているピダハンにも、こういった別の形の共同性があるといえるのでしょう。

すべてのピダハン一人ひとり全員に、それぞれの精霊がいるという彼らの普遍性が、その共同性。もちろん「わたし」にも他のピダハンではない人々にもそれは見えませんが、ピダハンの社会そのものは精霊がいることを前提に成り立っています。精霊無しではピダハンはありえず、全員が精霊から名前をもらっています。精霊はピダハンの共同性を保障する唯一のものであるかもしれません。人々に名前をさずけ、時に人々を恐怖させ、常に人々の営みを支えているのがピダハンの精霊です。文明国?であれば国家や大きな宗教に相当するのが彼らの精霊の存在だといえます。

この精霊以外にピダハンの共同性を象徴するものがあります。それは言葉であり、それによる会話です。多くの場合に叙事的でマテリアル(に)しか語ら(れ)ない、その特徴あるコミュニケーションはピダハンの共同性そのものを端的に現しています…。

       -       -       -

普通(に)は見えないはずの「空白」と、ピダハンの誰にも見える精霊と、チョムスキーの定義にまったくあわない言語…。これらのすべてが共同幻想=公的関係の表象として把握できるのが、心的現象として探究される共同幻想(論)の可能性だと考えられるでしょう。
空白の可視化と過視化された精霊…これら世界視線のエグザンプルと世界唯一と考えられる言語の方途…そこには共同性の極端なそれだけに純粋な姿があるのかもしれません。

ピダハン、全員でつくる言葉と行動でつくる関係?

規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族

鳥のように鳴いてコミュニケーションする少数民族ピダハン

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