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2013年4月30日 (火)

リニアな<価値化>と春樹ワールドの<遠近法>

・美という価値判断は人間の究極のものだろうけど、それだけにそれが何であるかはわからないことが多いかもしれない。たとえば<赤>という色が情熱を指すのか、血を象徴するのか、熱帯的なプリミティブなものを感じさせるのか、なぜクオリアの質感を触発するのか…などなど。

美に関していえば、その考察はモードや化粧論や誘惑論といったフランス現代思想的なものがあるだろうけど、ハイイメージ論はこれらをダイレクトにフォーカスし、しかも描き切っている感がある。ファッション論やJケージ論がそれ。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?


   色彩は自然を模倣するが、配色は論理を模倣する…
              (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」)

   幻聴の基本的な形式…に気がついていた人は、
   ひとりは宮沢賢治、ひとりはJ・ケージだ。

              (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」)


あらゆるモノゴトが自己の価値判断(究極は審美的な判断)として行使される(だけ)なら現実の数だけさまざまな主張や理論があるだけで、それらは普遍性を示していても共同性や共同体の何らかのファクターを示しているとは限らないのかもしれない。

戦後最大の思想家は、最深の思索をもって、それをブレークスルーしようとした…その痕跡を眺めるだけでも、大きな何かを得られるような気がする…。


・批評理論だけがそれらの陥穽?や呪縛あるいは自縛から逃れられる唯一の論なのだと思う。吉本隆明はあらゆる個別的現存ゆえのしがらみを払拭するために批評理論を目指しながら、詩人として自己の個別的現存を世界に露出させることで均衡してきた感がある。最後にその統御としての論を目指したのが芸術言語論だったのではないだろうか。沈黙は幹だが、沈黙だけでは何ら価値は発現せず無に帰してしまう。これは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』でも重要なテーマだったもの。


   文明とは伝達である、と彼は言った。
   もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。
   いいかい、ゼロだ。

 
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村上春樹がいう“手をつなぐのがイヤだからデモに行かなかった”的なものは、共同性への拒絶としてけっして小さな理由ではないかもしれない。むしろそれこそが身体的な判断としての共同性への拒否であるというのは根源的で、どこかに吉本隆明への経路さえ感得できる気がする。逆にいえば極論として、普遍化するためには身体性を捨象しなければならず、それでも残る関係性は言語(で)しかないというのが吉本の根源で前提だからだ。


   「遠くから見れば、」と僕は海老を呑み込みながら言った。
   「大抵のものは綺麗に見える。」


           
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・水を酸素と水素の化合物…というよりもH2Oと表現したいとどこかで語っていた吉本隆明が意味するのはどういうことなのか? このH2Oという物理化学上の表現は指示表出的なもので、他の水に関するさまざまな表現それぞれとともに両極を構成するもの。自己表出としての水をめぐる多様な表現と対をなすH2O…。ポスモダ的にいえばパフォーマティブとコンスタティブな…。


・マルクスの経哲ノート的に人間を類からみれば人間の価値の初源は対幻想における充足であり、それは個別的現存から見ればハイイメージ論でAスミスを援用して説明されるように内臓感覚に帰結する。三木成夫を持ち出すまでもなく、内化=受容のマテリアルな位相は内臓感覚であり、それは分子レベルの代謝をベースとする環界との関係性だ。逆に空間的な媒介(遮断も含む)を前提とした情報ベースの環界との関係性に対応するのが外化=表出周辺のモノゴトで、入り口は感覚。

   2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である。

ここまでは身体性に還元できたり推し量ることができるものかもしれない。
しかし、共同幻想論における対幻想の定義が心的現象論序説のそれとは異なるように、共同幻想そのものへのアプローチすべき位相はまだまだ他にありそうだ。ベキ上化あるいは自己言及や再帰性といったものとは違った経路にはファンクショナルな思索にも可能性があるかもしれない…。

   対幻想への禁制という否定性が共同幻想を生成する。


・常に対幻想を振り切ろうとするスタンスにしか批評の仮構された立場が存立し得ないことを自ら買ってでた思想家。その論拠にも人そのものにも太刀打ちできるものがいない事実はあまりにも当たり前な気がする。自己表出あるいは作品にはなり得ない批評…という他界の禁忌のような頂に一人で挑んだ孤高…。単独者にもまさる何かがそこにあるとすれば、それを知りたいという願望もまた禁じ得ないのかな…というのが吉本隆明という存在への全般的な最終的な自らの価値判断かもしれない…。他界禁忌ともいえる二重否定の向こうに獲得する観点はどんなものなのか? 一切に還元できない拠点を自らの直接性に求めるという運動(=詩作)を営んだ吉本隆明の方法論は知るほどに恐ろしいものでもあるのかもしれない。

       -       -       -

前回のエントリー「<写像>ということの意味?ソシュール・吉本隆明」の後半にいつものようにカッコ悪く力んだ文を書いていた。ポイントを絞れば以下の3文で数行のもの。結論すればとか極論すればとか、本質的にはとかいつもの文章だけど、それを紹介してくれているblogがあった。吉本隆明について多くのテキストが読める「ニュース逆さ読み」のエントリー「対幻想と自己表出」だ。吉本隆明と時代を共有したであろう世代の方に取り上げていただいたのは正直サプライズだった。ありがとうございました。

前回エントリーのポイントは以下…

* 結論からいえば「美」という価値判断も、あらゆる識知も、対幻想的な認識構造を前提にしている…ということになります。
* 極論すれば、想像すること思念することそのものの前提が対幻想で(も)あり、それは価値判断の前提であると同時に自己表出でもある…という吉本芸術論のリニアな姿を現してもいます。
* 本質的には2、3行で済むと自称された芸術論が先端科学から宗教まで含むものとして吉本理論の全景である…このことそのものが既に強大な思想の顕在化でもあったものとしての思索がそこにはあります。


2013年4月 6日 (土)

<写像>ということの意味?ソシュール・吉本隆明

   「犬」を文字に表すのに<犬>と書いても、
   <いぬ>でも<イヌ>と書いても、
   ソシュールのいう意義は変わらない。
   しかし、この表現の変化に応じて、
   微妙な価値の変化がある。

....この『ハイ・イメージ論Ⅱ』の基礎となる論考の「拡張論」における問題提起は例によってラジカルです。

 <犬>、<いぬ>、<イヌ>のどれでも「ソシュールのいう意義は変わらない」というのは「「犬」を文字に表す」ことにおいて変わらないのであって、それは指示表出の位相を指しているものだともいえます。品詞でいえば名詞に代表される指示表出は価値判断を捨象した概念の表象であり、あるいは価値判断を捨象したものが指示表出だといえる…ものです。

 <犬>、<いぬ>、<イヌ>の変化について「この表現の変化に応じて、微妙な価値の変化がある」けれども「ソシュールのいう意義は変わらない」のであれば、ソシュールの意義の範囲内では表現や価値の変化をフォローしていないことになります。微妙な価値の変化というのが芸術の意義ならば、ソシュールではそれをフォローでき(て)ないということに(も)なるでしょう。
 別のいい方をすればソシュールでは芸術的表現の分析は不可能だということでもあり、そうだとすると、ソシュールに大きく影響されているラカンの分析では芸術的表現または個々人でブレのある表現を分析できないということにもなるかもしれません。つまり最も個人的な内面の表出そのものである狂気こそ分析できないのがラカンだ、という逆説?的な結論さえ導く可能性があります…。いずれにせよソシュールで指示表出は対象化できるが自己表出の分析には限界があるということになるのでしょう。

       -       -       -

 ハイイメージ論が共同幻想=公的関係(性)を追究したものであるために、その「拡張論」でもいきなり以下のようなテキストにぶつかります。

   話す甲は<聴く甲>を想像して話すという行為にはいる。
   このときはじめて言語は「美」にはいる。

   話す甲が<聴く甲>を想像して話すという行為にはいることは、
   自己表出の成立にほかならない。

 この<甲>を<自分>だとすれば、自分が話をしようとするときには(既に)自分を想像している…ということになります。同様の似たような説明は『心的現象論序説』にも登場し、心的現象論的には「自己が自己に対置されるという一対一の分化」などフロイトを援用しつつあらゆる認知が対幻想的な認識を前提にしていることが説明されていきます。
 結論からいえば「美」という価値判断も、あらゆる識知も、対幻想的な認識構造を前提にしている…ということになります。

 対幻想は対他関係の起点であり前提であり共同幻想のシーズになるものですが、そもそもの母子一体の<自他不可分>の認識構造から遠隔化(発達、展開)していくその構造や構成そのものでもあり、共同幻想(論)からの演繹的なアプローチとして対幻想と呼称するのも、発達過程の認識の機能的な展開として何らかの名辞を与えるのも、対象的な認識の過程としては同じもの。

 極論すれば、想像すること思念することそのものの前提が対幻想で(も)あり、それは価値判断の前提であると同時に自己表出でもある…という吉本芸術論のリニアな姿を現してもいます。冪上化する認識つまり自己言及しながら増幅する認識という人間固有の認識の構造そのものがそのマテリアルだといえます。

 マテリアルとしての認識構造そのものが自然認知として対幻想的なものであることは『心的現象論序説』の以下のような説明でも明らかです。そこでは抽象的な数理系的な概念でさえ「美」を対象とするような認識の系つまり自然認知(=対幻想)に拠ることが一言で解かれています。

   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

 本質的には2、3行で済むと自称された芸術論が先端科学から宗教まで含むものとして吉本理論の全景である…このことそのものが既に強大な思想の顕在化でもあったものとしての思索がそこにはあります。

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