<写像>ということの意味?ウイットゲンシュタイン・吉本隆明
人間は言葉に従って図面を描くことができる。
言葉を図面に翻訳するのである。
それはある言葉を他の言葉に翻訳するのと同じだ。
....というのはウイットゲンシュタインの『哲学的孝察』における問題意識。
思考を前提とした言語による表出を、図形という視覚による表象に置き換えるのは、言語を別の言語に置き換えるのと同じだ、ということ…。
ここで問題になるのは概念を視覚象に置き換える能力。そこには、どんな認識の過程があるのか?
ハイイメージ論全般に通底するラジカルなテーマともいえるものがコレです。(それは同時にハイイメージ論へのマトモな論評が少ないことへの理由にもなっているのでしょう。)
ところで、これは『ハイ・イメージ論Ⅱ』におさめられている「パラ・イメージ論」のテーマで、『言語にとって美とはなにか』の現在版であることを目指した『ハイ・イメージ論』のメインテーマにもなるもの。しかしハイイメージ論(マスイメージ論を含む)が結論として共同幻想=公的関係(性)を追究したものであるために、その解はそこにはありません。解があるのは『心的現象論本論』のなかです。ヘーゲリアンである見田石介のような問題意識(柄谷行人の問題意識を生んだともいえる)からすれば上昇と下降あるいは抽象と演繹のなかでマテリアルに帰着できるものを求めれば解として心的現象論に収斂するのは当然。マテリアルである以上求められているのは生物(学)的な合理性であり、それは膨大なエグザンプルや実験論文をサンプリングしている特異な論文となった心的現象論本論の形態の意味そのものを指し示しているともいえます。
「思考を前提とした言語による表出を、図形という視覚による表象に置き換える」過程を分解すると、言語の生成と図形の形成になります。いいかえれば概念と視覚像のそれぞれの生成過程です。
「図形という視覚による表象に置き換える」ことのラジカルなヒントは視覚像が生成される過程にあり、感覚器官としての視覚像が受容される位相ではなく視覚像を求める位相そのものとしての意義がありそうです。これは人間が最も合理的に視覚像を描こうとするという事実に至った論考に示されているといえるでしょう。
<眼>の知覚はこの種の線分の集合から、
いつも<さっぱりしたい>という感情を誘引し、
知覚にみちびき入れる。
「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)
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「思考を前提とした言語による表出」の過程については以下のようなラジカルな問題提起が示されています。
「犬」を文字に表すのに<犬>と書いても、
<いぬ>でも<イヌ>と書いても、
ソシュールのいう意義は変わらない。
しかし、この表現の変化に応じて、
微妙な価値の変化がある。
....これは『ハイ・イメージ論Ⅱ』の基礎となる論考の「拡張論」における問題提起。
この微妙な価値の変化というのが芸術の意義だというのが、その主張です。
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