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2012年10月 4日 (木)

『3重構造の日本人』…言葉と感性が示す日本人のルーツ

 

「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」というマルクスの言葉が繰り返される本書『3重構造の日本人 現代人の心をのぞけばルーツが見える』望月清文・NHK出版)は、同じ言葉ではじまる中村雄二郎『共通感覚論』と同じテーマを扱っている。同書は“はじめにロゴスありき”だった訓詁学的な思索に再考を促し、学際的な意味でも衝撃的だった。そしてポストモダンの契機ともなった。本書『3重構造の日本人』は、それ以上に大きな意味をもっている一冊だともいえる。なぜなら本書の内容は言語と感性への考察だが、その手法が科学的であり、ミトコンドリアDNA解析の結果とも一致するものだからだ。

 言語についての考察で遺伝子との照応させたものは「表音転位論」(吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅱ』最終章)だけだと思われるが、吉本の全般的な思索と理論の根幹そのものが本書によって保証または補強なり論証なりできるものであり、併読は大きなプラスになるだろう。


           
3重構造の日本人―現代人の心をのぞけばルーツが見える

著:望月 清文
参考価格:¥ 1,785
価格:¥ 1,785

   

 大きな意味のある1つの現実と1つの実験がある。
 全盲の人は視覚以外の感覚で視覚情報の欠落を補っている。聴覚や触覚の鋭敏さで周囲の空間に対する認識をフォローしていて、相当の精緻さで対象を把握できる。例えば音の反射で対象物の硬さや大きさがわかるし、部屋であれば広さなどを正確に捉えることができる。全盲者の感覚の空間認識能力は一般的な人間よりも高度で的確なのかもしれない。
 逆さメガネによる実験がある。上下も左右もすべてが逆さまに映るメガネだ。このプリズムで作った実験用のメガネを掛けるとどうなるのか。眩暈や吐き気で苦しみそうだが、現実にはそうでもないらしい。この上下も左右も逆さまに映るメガネを掛け続けると1週間くらいで馴染んでしまうという。すべてが今までとは逆さまに映る状況で普通に生活ができるようになるのだ。人間の適応能力は想像以上なのかもしれない。
 全盲の人の現実は感覚のすぐれた代替能力を示しているし、逆さメガネの実験は感覚を統合する能力の可変性を示している。どちらも人間の適応力の全体的な可能性を示していて、あらためて驚くものがある。この可変性や可塑性は人間が生存を確保してきた理由の一つでもあるのだろう。


 本書の考察は「言葉と五感との係わり」を調べるアンケートが基本になっている。アンケートは言葉とそれに対応した五感、その結びつきの強さを選んでもらうものだ。言葉は感性用語と呼ばれる「明るい」「快い」などの一般的なもので広辞苑から選ばれた165語からなっている。言葉に結びつける五感は視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で、それに「気分」という項目がプラスされた6項目。これらの「言葉と五感との係わり」が共通感覚の具体的な現われとして把握される調査なのだ。

 調査のなかで大きく予測が裏切られたものがある。それは全盲の人のケースだ。そしてそこに根源的な意味があるのだろう。全盲者のあり方から、前述のような視覚以外の感覚と言葉の照応が大きいと予測するのが普通だが結果は違っていた。全盲者の傾向も健常者と同じで、鋭敏になった感覚やそれに対応した言葉への結びつきが特に強くなるといった傾向が全くなかったのだ。全盲の被験者自身がこのことには驚いてしまったという。この結果が意味していることは大きく重要だ。
 この全盲者の調査結果からわかるのは、個人の生涯程度のスパンでの経験では左右されないものがあるということだろう。共通感覚は個体のスパンでは左右されないのだ。それはマルクスの言葉どおり共通感覚は「全世界史の一つの労作」として形成されてきたことを示している。逆さメガネのように感覚の可塑性は大きく、また鋭敏化によって通常の感覚を容易に超える能力をもつが、それらは言語との照応関係に影響するような強度はないのだ。はるかに長い歴史的な時間のスパンではじめて共通感覚は育まれ形成されていくのだろう。その閾値としての時間(量)は不明だが、遺伝子の変成に対応するような生物学的な長大な時間であることは確かなようだ。


 共通感覚をめぐってわかるのは“はじめにロゴスありき”が間違いだということだろう。また結論をいってしまえば“はじめにロゴスありき”という認識が優位になっていくことを成長というのかもしれない。原生的疎外を起点とする人間は、ついには間違いを増大させて、その極点で不意に無化されるのだ。問題は、個々人は自らそれを選択したワケではないということだけのコトかもしれない。それはそれで原罪と呼ばれるのだろうが。
 シリアスな現実を前にレーニンのようにドリンドリンと笑うのか、マイルスのようにSo What?とクールに過ごすのか、解決しない原罪とやらに向きあってシリアスな顔をしてみせるのか、人それぞれではあるが、それが他者に影響を与える限りは看過されるべきことではないだろう。


  『3重構造の日本人』P33)
  私たちは、この共通感覚があることによって、
  一つの感覚より得た刺激から、物、人、自然、社会といったものの
  全体像をイメージとしてとらえ、自分との係わりとして把握することができる…

 あの少女ルネらしいサンプルでこのことが説明されている。つまり、共通感覚を失ったケースとして、他者と自分との係わりがわからなくなってしまうという病について、だ。簡単にいうと、共通感覚を失うと自己確定(自己表出のより仔細な解釈として)ができないということ。あるいは自己確定ができないのは対象との認識において何かを失っているということだろう。何か…ここでいわれている共通感覚とは、<何>なのか? ヒントは「一つの感覚より得た刺激から」「全体像をイメージとしてとらえ」「自分との係わりとして把握する」というように明示されている。

 <感覚><全体像><イメージ><自分との係わり>…どれもこれも心的現象論が30年以上も探究してきたものだ。一般には、まだ、<全体像>や<イメージ>について納得できる知見はないし、<自分との係わり>になると笑い話かビョーキなつぶやきくらいしかないのかもしれない。<自分との係わり>は乳胎児以来の自己認識のあり方に左右され、<イメージ>は認識そのものの微分されるべき要素だ。それぞれ吉本隆明の、思想の根幹をめぐる思索のなかで解題されてきたものだ。マテリアルな考察は必然だが、答えがマテリアルなワケではないところにその価値と普遍性があるのは確かだろう。

 初歩的なレベルでは視覚像=ビジュアルと観念像(想像)=イメージ(心像)の峻別さえついていない。実際、この認識の基礎のいちばん重要な概念装置について考えてきた思想家はそれほど多くはないようだ。吉本隆明では頻繁にサルトルMポンティなどが引用されているが、本書でも最重要なパートでMポンティが援用されている。


 結論をいってしまうと、懐かしいという認識へのアプローチがクローズアップされてくる。
 それは人間の元来のあり方であった受動性によるものだ。
 受動態からみれば、すべては懐かしい。
 そして、そこへ至れない思いはせつない。
 アートから芸能まで、ここにフォーカスした表現がその強度ゆえに幻想の指示表出と化したもの…それも対幻想の上の…それが本来ならば数行で済むと吉本が指摘した芸術のすべてなのだろう。


 尊敬語があるのは日本人とバスク人らしいが、その特徴が示しているものは何か?
 抽象すれば、尊敬語というのは相手を<物化>して<遠隔化>するものだ。
 相手を自分と同じ人間として扱ってはならないために物化する。そして相手に近づいてはならないために遠隔化する。<物化>しつつ同時に<遠隔化>する。この2つの認識が尊敬語の基礎的な機能になっているし、そのように機能する言語が尊敬語なのだ。対象を自己に類似するであろう人間性(<人称>)から無限に遠ざければ物化するのは当然だが、そこにはさらに大きな何かがある。たとえば、無限の果てには対象は不可知になり尊敬の念だけが残るかもしれない。これが宗教や神のはじまりと見なすこともできる。対象不明のまま尊敬の念だけが増長するのだ。未開人の認識や未熟な対象認識をいうとき、その可能性に触れているのがアフリカ的段階の考察や共同幻想論のエピソードであり、そこでは<物化>や<遠隔化>という概念が前提となっている。
 吉本隆明が圧倒的だった証がここにもあるといえるだろう。

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