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2012年10月24日 (水)

TPO=場所的限定という原点

 ある精神分析医の本に、引越しをしただけで統合失調症が治ってしまった例が書かれてました。
 もちろん精神疾患が治った理由は不明だとされてます。しかし、そこにはハッキリと“引っ越したら治った”と書いてあります…。

 吉本隆明さんの読者ならば、すぐにわかる可能性があるのがココ。
 “引っ越したら治った”という事実について。

 認識の基本となるのは、まず、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原点。
 この“ダレ?ドコ?”がモノゴトを認識していく<概念>や<規範>を形成する起点になる…ので、観念、意識の基礎にある<概念>や<規範>を変成したり変容したりできれば、すべての認識は自由自在に変化させることができるワケです。そのために宗教などが命がけの修業をしてでも獲得しようとする能力やスキルが、コレになります。それは“ダレ?ドコ?”まで遡行することと、そこで<概念>や<規範>をコントロールすること。
 それは自分がいま、どこに、どのようにいるか?ということがすべての認識の前提にありスタートになっているからですね。


 乳胎児では観念と運動が未分化。つまり思考と行動が未分化。
 そのために<感じたこと>はそのまま<行動したこと>になってしまう。
 そして“そこに居る”ことそのものが<行動した(する)こと>の原点(起点)になっている。

 そのために、そこまで遡って認識を組み直すと、すべての認識を作り変えることができる…。
 これが“引っ越した=場所を変えた”だけで精神疾患が治ってしまった根本的な要因です。

 問題は、引っ越して場所を変えただけのことが、どうやって“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原了解のレベルの認識まで遡行できるのか?ということ…。

 ここに吉本理論でもっとも重要な哲学的な発見があります。
 それはインド哲学の<ゼロの発見>にも相当するともいえるもの。すべての認識の原点になるもの…。
 ゼロの発見で数学は飛躍的に発展しましたが、<観念の弁証法>と自称される吉本理論は、その根本に観念の起点を定義づけることができているワケです。

 吉本隆明さんは、認識論において<ゼロ>を発見してしまっているといえるでしょう。本人は別の表現をしていて、<純粋疎外>と定義しています。この<純粋疎外>が数学における<ゼロの発見>にも相当するもの。
 吉本理論の全工程にわたって貫徹されている概念装置が、この<純粋疎外>で、これはまさしく<ゼロの発見>における<ゼロ>だといえるものです。


 ポイントは“引っ越して場所を変えた”だけのことが、認識の基礎を形成する“ワタシはダレ?・ココはドコ?”ということと、どうやって同致されるのだろう? どうやって変換可能なもの、転換可能な状態になるのか?ということですね。
 これは対象を感受する感覚が、TPOによっては対象と自分の峻別がつかない状態になることを論証できればいいワケです。
 つまり、人間は条件さえ整えば<自他不可分>の状態になる、ということを示すことができればいいはずです。


 旅に出てリフレッシュするのは、誰でもやってること。
 リフレッシュとは、認識を新たにすること。
 ふつうはリフレシュしても、そのあとで、もとの日常的な認識(終わりなき日常)に戻るだけですが、ちょっとしたことで、それをズラしたり、もとの日常とは別の認識を維持することができます。

 場所を変えただけでも、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という認識の原点=原了解のレベルへ遡行できれば認識をリフレッシュ、変成、変容することが可能です。そうすれば、すべて(の認識)は変えられる…。
 それが引っ越しただけで精神疾患を治してしまった人の例…。

 場所=TPOを変え、原了解レベルの認識をリセットしたりコントロールするということは、<世界視線>の見え方をコントロールすること…。

 それは誰もが意識しないで日常から行なっている自己治療であるかもしれません。
 この自己のリセットを意識的に行うことで、自分の強度を増すことができます。
 これはTPOをコントロールすることで…シンプルに最強の自己を生成する方法でしょう。

 吉本隆明氏が晩年によく言及したフーコーの「自己への配慮」とは、こういうことを指していたのではないでしょうか…。

(2012/10/24,2014/4/24)

2012年10月 4日 (木)

『3重構造の日本人』…言葉と感性が示す日本人のルーツ

 

「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」というマルクスの言葉が繰り返される本書『3重構造の日本人 現代人の心をのぞけばルーツが見える』望月清文・NHK出版)は、同じ言葉ではじまる中村雄二郎『共通感覚論』と同じテーマを扱っている。同書は“はじめにロゴスありき”だった訓詁学的な思索に再考を促し、学際的な意味でも衝撃的だった。そしてポストモダンの契機ともなった。本書『3重構造の日本人』は、それ以上に大きな意味をもっている一冊だともいえる。なぜなら本書の内容は言語と感性への考察だが、その手法が科学的であり、ミトコンドリアDNA解析の結果とも一致するものだからだ。

 言語についての考察で遺伝子との照応させたものは「表音転位論」(吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅱ』最終章)だけだと思われるが、吉本の全般的な思索と理論の根幹そのものが本書によって保証または補強なり論証なりできるものであり、併読は大きなプラスになるだろう。


           
3重構造の日本人―現代人の心をのぞけばルーツが見える

著:望月 清文
参考価格:¥ 1,785
価格:¥ 1,785

   

 大きな意味のある1つの現実と1つの実験がある。
 全盲の人は視覚以外の感覚で視覚情報の欠落を補っている。聴覚や触覚の鋭敏さで周囲の空間に対する認識をフォローしていて、相当の精緻さで対象を把握できる。例えば音の反射で対象物の硬さや大きさがわかるし、部屋であれば広さなどを正確に捉えることができる。全盲者の感覚の空間認識能力は一般的な人間よりも高度で的確なのかもしれない。
 逆さメガネによる実験がある。上下も左右もすべてが逆さまに映るメガネだ。このプリズムで作った実験用のメガネを掛けるとどうなるのか。眩暈や吐き気で苦しみそうだが、現実にはそうでもないらしい。この上下も左右も逆さまに映るメガネを掛け続けると1週間くらいで馴染んでしまうという。すべてが今までとは逆さまに映る状況で普通に生活ができるようになるのだ。人間の適応能力は想像以上なのかもしれない。
 全盲の人の現実は感覚のすぐれた代替能力を示しているし、逆さメガネの実験は感覚を統合する能力の可変性を示している。どちらも人間の適応力の全体的な可能性を示していて、あらためて驚くものがある。この可変性や可塑性は人間が生存を確保してきた理由の一つでもあるのだろう。


 本書の考察は「言葉と五感との係わり」を調べるアンケートが基本になっている。アンケートは言葉とそれに対応した五感、その結びつきの強さを選んでもらうものだ。言葉は感性用語と呼ばれる「明るい」「快い」などの一般的なもので広辞苑から選ばれた165語からなっている。言葉に結びつける五感は視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で、それに「気分」という項目がプラスされた6項目。これらの「言葉と五感との係わり」が共通感覚の具体的な現われとして把握される調査なのだ。

 調査のなかで大きく予測が裏切られたものがある。それは全盲の人のケースだ。そしてそこに根源的な意味があるのだろう。全盲者のあり方から、前述のような視覚以外の感覚と言葉の照応が大きいと予測するのが普通だが結果は違っていた。全盲者の傾向も健常者と同じで、鋭敏になった感覚やそれに対応した言葉への結びつきが特に強くなるといった傾向が全くなかったのだ。全盲の被験者自身がこのことには驚いてしまったという。この結果が意味していることは大きく重要だ。
 この全盲者の調査結果からわかるのは、個人の生涯程度のスパンでの経験では左右されないものがあるということだろう。共通感覚は個体のスパンでは左右されないのだ。それはマルクスの言葉どおり共通感覚は「全世界史の一つの労作」として形成されてきたことを示している。逆さメガネのように感覚の可塑性は大きく、また鋭敏化によって通常の感覚を容易に超える能力をもつが、それらは言語との照応関係に影響するような強度はないのだ。はるかに長い歴史的な時間のスパンではじめて共通感覚は育まれ形成されていくのだろう。その閾値としての時間(量)は不明だが、遺伝子の変成に対応するような生物学的な長大な時間であることは確かなようだ。


 共通感覚をめぐってわかるのは“はじめにロゴスありき”が間違いだということだろう。また結論をいってしまえば“はじめにロゴスありき”という認識が優位になっていくことを成長というのかもしれない。原生的疎外を起点とする人間は、ついには間違いを増大させて、その極点で不意に無化されるのだ。問題は、個々人は自らそれを選択したワケではないということだけのコトかもしれない。それはそれで原罪と呼ばれるのだろうが。
 シリアスな現実を前にレーニンのようにドリンドリンと笑うのか、マイルスのようにSo What?とクールに過ごすのか、解決しない原罪とやらに向きあってシリアスな顔をしてみせるのか、人それぞれではあるが、それが他者に影響を与える限りは看過されるべきことではないだろう。


  『3重構造の日本人』P33)
  私たちは、この共通感覚があることによって、
  一つの感覚より得た刺激から、物、人、自然、社会といったものの
  全体像をイメージとしてとらえ、自分との係わりとして把握することができる…

 あの少女ルネらしいサンプルでこのことが説明されている。つまり、共通感覚を失ったケースとして、他者と自分との係わりがわからなくなってしまうという病について、だ。簡単にいうと、共通感覚を失うと自己確定(自己表出のより仔細な解釈として)ができないということ。あるいは自己確定ができないのは対象との認識において何かを失っているということだろう。何か…ここでいわれている共通感覚とは、<何>なのか? ヒントは「一つの感覚より得た刺激から」「全体像をイメージとしてとらえ」「自分との係わりとして把握する」というように明示されている。

 <感覚><全体像><イメージ><自分との係わり>…どれもこれも心的現象論が30年以上も探究してきたものだ。一般には、まだ、<全体像>や<イメージ>について納得できる知見はないし、<自分との係わり>になると笑い話かビョーキなつぶやきくらいしかないのかもしれない。<自分との係わり>は乳胎児以来の自己認識のあり方に左右され、<イメージ>は認識そのものの微分されるべき要素だ。それぞれ吉本隆明の、思想の根幹をめぐる思索のなかで解題されてきたものだ。マテリアルな考察は必然だが、答えがマテリアルなワケではないところにその価値と普遍性があるのは確かだろう。

 初歩的なレベルでは視覚像=ビジュアルと観念像(想像)=イメージ(心像)の峻別さえついていない。実際、この認識の基礎のいちばん重要な概念装置について考えてきた思想家はそれほど多くはないようだ。吉本隆明では頻繁にサルトルMポンティなどが引用されているが、本書でも最重要なパートでMポンティが援用されている。


 結論をいってしまうと、懐かしいという認識へのアプローチがクローズアップされてくる。
 それは人間の元来のあり方であった受動性によるものだ。
 受動態からみれば、すべては懐かしい。
 そして、そこへ至れない思いはせつない。
 アートから芸能まで、ここにフォーカスした表現がその強度ゆえに幻想の指示表出と化したもの…それも対幻想の上の…それが本来ならば数行で済むと吉本が指摘した芸術のすべてなのだろう。


 尊敬語があるのは日本人とバスク人らしいが、その特徴が示しているものは何か?
 抽象すれば、尊敬語というのは相手を<物化>して<遠隔化>するものだ。
 相手を自分と同じ人間として扱ってはならないために物化する。そして相手に近づいてはならないために遠隔化する。<物化>しつつ同時に<遠隔化>する。この2つの認識が尊敬語の基礎的な機能になっているし、そのように機能する言語が尊敬語なのだ。対象を自己に類似するであろう人間性(<人称>)から無限に遠ざければ物化するのは当然だが、そこにはさらに大きな何かがある。たとえば、無限の果てには対象は不可知になり尊敬の念だけが残るかもしれない。これが宗教や神のはじまりと見なすこともできる。対象不明のまま尊敬の念だけが増長するのだ。未開人の認識や未熟な対象認識をいうとき、その可能性に触れているのがアフリカ的段階の考察や共同幻想論のエピソードであり、そこでは<物化>や<遠隔化>という概念が前提となっている。
 吉本隆明が圧倒的だった証がここにもあるといえるだろう。

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