TPO=場所的限定という原点
ある精神分析医の本に、引越しをしただけで統合失調症が治ってしまった例が書かれてました。
もちろん精神疾患が治った理由は不明だとされてます。しかし、そこにはハッキリと“引っ越したら治った”と書いてあります…。
吉本隆明さんの読者ならば、すぐにわかる可能性があるのがココ。
“引っ越したら治った”という事実について。
認識の基本となるのは、まず、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原点。
この“ダレ?ドコ?”がモノゴトを認識していく<概念>や<規範>を形成する起点になる…ので、観念、意識の基礎にある<概念>や<規範>を変成したり変容したりできれば、すべての認識は自由自在に変化させることができるワケです。そのために宗教などが命がけの修業をしてでも獲得しようとする能力やスキルが、コレになります。それは“ダレ?ドコ?”まで遡行することと、そこで<概念>や<規範>をコントロールすること。
それは自分がいま、どこに、どのようにいるか?ということがすべての認識の前提にありスタートになっているからですね。
乳胎児では観念と運動が未分化。つまり思考と行動が未分化。
そのために<感じたこと>はそのまま<行動したこと>になってしまう。
そして“そこに居る”ことそのものが<行動した(する)こと>の原点(起点)になっている。
そのために、そこまで遡って認識を組み直すと、すべての認識を作り変えることができる…。
これが“引っ越した=場所を変えた”だけで精神疾患が治ってしまった根本的な要因です。
問題は、引っ越して場所を変えただけのことが、どうやって“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原了解のレベルの認識まで遡行できるのか?ということ…。
ここに吉本理論でもっとも重要な哲学的な発見があります。
それはインド哲学の<ゼロの発見>にも相当するともいえるもの。すべての認識の原点になるもの…。
ゼロの発見で数学は飛躍的に発展しましたが、<観念の弁証法>と自称される吉本理論は、その根本に観念の起点を定義づけることができているワケです。
吉本隆明さんは、認識論において<ゼロ>を発見してしまっているといえるでしょう。本人は別の表現をしていて、<純粋疎外>と定義しています。この<純粋疎外>が数学における<ゼロの発見>にも相当するもの。
吉本理論の全工程にわたって貫徹されている概念装置が、この<純粋疎外>で、これはまさしく<ゼロの発見>における<ゼロ>だといえるものです。
ポイントは“引っ越して場所を変えた”だけのことが、認識の基礎を形成する“ワタシはダレ?・ココはドコ?”ということと、どうやって同致されるのだろう? どうやって変換可能なもの、転換可能な状態になるのか?ということですね。
これは対象を感受する感覚が、TPOによっては対象と自分の峻別がつかない状態になることを論証できればいいワケです。
つまり、人間は条件さえ整えば<自他不可分>の状態になる、ということを示すことができればいいはずです。
旅に出てリフレッシュするのは、誰でもやってること。
リフレッシュとは、認識を新たにすること。
ふつうはリフレシュしても、そのあとで、もとの日常的な認識(終わりなき日常)に戻るだけですが、ちょっとしたことで、それをズラしたり、もとの日常とは別の認識を維持することができます。
場所を変えただけでも、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という認識の原点=原了解のレベルへ遡行できれば認識をリフレッシュ、変成、変容することが可能です。そうすれば、すべて(の認識)は変えられる…。
それが引っ越しただけで精神疾患を治してしまった人の例…。
場所=TPOを変え、原了解レベルの認識をリセットしたりコントロールするということは、<世界視線>の見え方をコントロールすること…。
それは誰もが意識しないで日常から行なっている自己治療であるかもしれません。
この自己のリセットを意識的に行うことで、自分の強度を増すことができます。
これはTPOをコントロールすることで…シンプルに最強の自己を生成する方法でしょう。
吉本隆明氏が晩年によく言及したフーコーの「自己への配慮」とは、こういうことを指していたのではないでしょうか…。
(2012/10/24,2014/4/24)
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