無意識は構造化している?(ラカン)…無意識の多重性
フロイトの<無意識>概念に対するラカンの解釈、無意識は構造化している…“無意識は言語として構造化している”…というのは鏡像段階論とともに有名だが、機序には科学的なエビデンスがなく推論の域をでない。もちろん推論でも構わないが、無意識を探究する経路には、しっかりした論理的なものがあるし、そこから推論されるべきだろう。鏡像段階論もある特定の個体では確定できるケースもあるかもしれないが、普遍的には困難だ。もちろん論それ自体がメタフォアだからという換喩としてなら…意味があるが、ラカンの体系そのものが、シニフィアンの連鎖…といった時点で臨界であるか限界であるかを感じさせるのはブレークスルーまちの証左とも取れる。アラン・ソーカルは数理的なアプローチ(の間違い)にケチをつけたというよりも、衒学そのものとしてラカンらを遊んでみせた…のでないだろうか?
素朴な疑問はすべての科学のはじまりだが、精神分析も哲学もそれは同じハズだ。
たとえば、無意識とは何なのか?…という設問そのものに解の端緒があることは、すべての科学的(つまり論理的)思考の基本と同じ認識になるだろう。
<無意識>が示しているのはその指示表出のとおり<意識でない>ことか<意識できない>ことなので、ソレを探せばいいワケだ。
<意識する>ことを<考える>ことだとすれば、論理学そのものであるかのように、<考えること>の限界や{非<考えること>}を抽出できる。つまり論理の限界が考えることの限界なので、それを抽出すればいいことになる。論理の限界は有名な定理や公理としていくつか示されているので、それをそのまま考えることの限界とすることが可能だ。
結論からいうと、無意識は意識するということ考えるということの限界として把握できる。あるいは無意識は意識できないつまり対象化できないこととして考えても把握できる。
意識ではないコト、意識できないコト、対象化できないコト…これらの空間性の属性をマルクスの思索方法の影響を受けている吉本式に時間性におきかえれば解への経路は明白だ。
たとえば、乳胎児の発達という段階的なものからのアプローチが可能だ。
そこでは、母の意識も無意識も、乳胎児の無意識を形成していく…。
以上からすぐに以下のような「無意識の多重性」が抽出できる…
・意識する・思考することの論理的な限界として自己言及の不可能性=自己矛盾がある。
・いまだ意識化・対象化できていないこととして認知不全の領域がある。
・母(体)からの影響=転写としての無意識があり、母の意識も無意識も子の無意識となっている。
“無意識は言語として構造化している”というラカンの主張は、それ以上のものではないが、「無意識の多重性」は吉本理論にアタックしていてたどりついた、一つの結論だ。吉本さんは“同じことを5年以上続けたらプロとして成果ができる”とどこかでいっているが、「無意識の多重性」は7年前にゴールした解のひとつだ。
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