「あ」や「あ」のアトラクタ…トポロジカルな批評から
位相幾何学を形態と構造でとらえるカタストロフ理論では、位相の質的な転換点がカタストロフ点(分岐点)とされます。このカタストロフ点を境に位相のある方向性を示しているポテンシャル線は転換します…。トポロジカルな位相の基本的な形態は凹凸(デコボコ)とその中間値である―(平坦)の組み合わせ。これを身体で考えると頭部や女性の胸などの凸部とその領域がポテンシャル線を集め、そこから凹部あるいは―に向かってポテンシャル線は拡散していく…というように認識できます。このトポロジカルな基礎の上にファッションや化粧といったレイヤーとしての身体の位相が形成されていく…というのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」の基本的な認識ではないかと考えられます。
「ファッション論」で駆使されているような認識から、他へのさらなる批評は可能かどうか考えてみました。たとえば文字や文についてですが…。
ほとんどすべてが均質的な空間性による表現でも、どこかにアトラクタがあり、そこには価値や意味があります。文字や文の場合だと…たとえば全文が、ほぼ「あ」だけで埋めつくされていても、そこには意味も価値もあります。文の初めの「あ」にはアトラクタ(の始まり)としての、終わりの「あ」には文やアトラクタの終りとしての意味があり、それにともなう価値があるわけです。文字が読むことへ誘い導く過程のはじまりは、まず文字があることからスタートします。阿字観や明恵上人の歌のように、文字や文の価値としての豊穣性はその指示表出としての単調さには左右されないでしょう。指示表出の単調さは…二進法やコンピュータのマシン語をみれば当然ですが…まったく自己表出の単調さ、あるいは価値の単純さを意味していません。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああ、ああああああああああ~あああ。
あああああああああああ。ああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああああああ、ああああ
ああああああああああああああああああああああああああ。
均質性が高いほど<、>や<。>などの句読点や記号が大きな意味を持ってきます。これは規範(≦形態)と概念(意味や価値)が逆立する典型例になります。
そもそも表現はアトラクタと非アトラクタを両極とする中間にあり、どんなに複雑な表現も高度な表現も、この両極の間にあるだけで、文章でもトポロジーでもそれは同じです。これは価値判断=批評の原点となる基礎的な認識であり、吉本隆明さんはイメージを対象にしてもそれを自在に行使できることを批評理論において示してみせたワケです。“吉本にはイメージがわかっていない…”といったハイ・イメージ論への全面否定は近代文学批評レベルの吉本理論への否定とも違って、ほぼ全面的に自らを葬ってくれたものとして理解できるかもしれません。それらの論者がいる・いないということすらもはや話題にならないところまで時代はきたからです。
文字が登場し、そのアトラクタにより歌や踊りからミメーシスを奪い、文字のアトラクションが優位になっていく過程がポリスの頽廃の過程そのものであることを見抜いたMフーコー。そのような分析を可能とする視点からのアプローチが、吉本さんのファッション論にもあります。ファッションの表象がどのようにアトラクションとして作用するかを考察したハイイメージ論の「ファッション論」は、ほぼ唯一のラジカルな理論としての芸術論といってもいいのかもしれません。『動物化するポストモダン』などで取り上げられた“つけ耳”の分析など、アディクティッドされることへの考察はこれと類似する問題意識があるものと考えられます。トポロジー(位相幾何学)としての芸術論はアディクティッドされるポテンシャルを視線の特異点として設定しています。つまり視線の集まり方を解析していくというのがトポロジーから見た芸術論になり、視線の集まるところをトポロジカルに示すことからスタートするワケです。
同じテキストの中で同じ語を漢字と平仮名で使い分けて表記するという吉本さんのこだわりは、同じ文章ならばすべて同じ表記でという編集者の平板な認識には理解されない…という吉本さんの嘆きがあります。宮沢賢治が複数の視点やスタンスを微細に使い分けるように、吉本さんの表現に異なるレベルを設定してレイヤーのように全体を構築していこうというダイナミックで精緻な志は大変貴重なものだと思います。
吉本さんがテキストで「かんがえる」とひらがな表記することなどを批判しているチラシが配られたことがあるそうですが、瞬間芸以上に爆笑を誘ってくれるイベントだったともいえるでしょう。
アートへのカウンターとなったのがスーパフラットならば、アートのクリティカルは何によってとどめを刺されたのか…考えるだけで爆笑できる現実が、そこにはあるのかもしれず、現代アートを“ロバの尻尾で描いた”と揶揄した今はなき世界最大の帝国ソビエト連邦の最高指導者の言葉は、いまになって考えるとニヤリとできるものを語ってもいたのかもしれません。
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