OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

とれまがブログランキング

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月20日 (月)

「あ」や「あ」のアトラクタ…トポロジカルな批評から

 位相幾何学を形態と構造でとらえるカタストロフ理論では、位相の質的な転換点がカタストロフ点(分岐点)とされます。このカタストロフ点を境に位相のある方向性を示しているポテンシャル線は転換します…。トポロジカルな位相の基本的な形態は凹凸(デコボコ)とその中間値である―(平坦)の組み合わせ。これを身体で考えると頭部や女性の胸などの凸部とその領域がポテンシャル線を集め、そこから凹部あるいは―に向かってポテンシャル線は拡散していく…というように認識できます。このトポロジカルな基礎の上にファッションや化粧といったレイヤーとしての身体の位相が形成されていく…というのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」の基本的な認識ではないかと考えられます。

 「ファッション論」で駆使されているような認識から、他へのさらなる批評は可能かどうか考えてみました。たとえば文字や文についてですが…。

 ほとんどすべてが均質的な空間性による表現でも、どこかにアトラクタがあり、そこには価値や意味があります。文字や文の場合だと…たとえば全文が、ほぼ「あ」だけで埋めつくされていても、そこには意味も価値もあります。文の初めの「あ」にはアトラクタ(の始まり)としての、終わりの「あ」には文やアトラクタの終りとしての意味があり、それにともなう価値があるわけです。文字が読むことへ誘い導く過程のはじまりは、まず文字があることからスタートします。阿字観明恵上人の歌のように、文字や文の価値としての豊穣性はその指示表出としての単調さには左右されないでしょう。指示表出の単調さは…二進法やコンピュータのマシン語をみれば当然ですが…まったく自己表出の単調さ、あるいは価値の単純さを意味していません。


    ああああああああああああああああああああああああああああああああああ
    ああああああああああああああああああ、ああああああああああ~あああ。
    あああああああああああ。ああああああああああああああああああああああ
    あああああああああああああああああああああああああああああ、ああああ
    ああああああああああああああああああああああああああ。


 均質性が高いほど<、>や<。>などの句読点や記号が大きな意味を持ってきます。これは規範(≦形態)と概念(意味や価値)が逆立する典型例になります。


 そもそも表現はアトラクタと非アトラクタを両極とする中間にあり、どんなに複雑な表現も高度な表現も、この両極の間にあるだけで、文章でもトポロジーでもそれは同じです。これは価値判断=批評の原点となる基礎的な認識であり、吉本隆明さんはイメージを対象にしてもそれを自在に行使できることを批評理論において示してみせたワケです。“吉本にはイメージがわかっていない…”といったハイ・イメージ論への全面否定は近代文学批評レベルの吉本理論への否定とも違って、ほぼ全面的に自らを葬ってくれたものとして理解できるかもしれません。それらの論者がいる・いないということすらもはや話題にならないところまで時代はきたからです。


 文字が登場し、そのアトラクタにより歌や踊りからミメーシスを奪い、文字のアトラクションが優位になっていく過程がポリスの頽廃の過程そのものであることを見抜いたMフーコー
そのような分析を可能とする視点からのアプローチが、吉本さんのファッション論にもあります。ファッションの表象がどのようにアトラクションとして作用するかを考察したハイイメージ論の「ファッション論」は、ほぼ唯一のラジカルな理論としての芸術論といってもいいのかもしれません。『動物化するポストモダン』などで取り上げられた“つけ耳”の分析など、アディクティッドされることへの考察はこれと類似する問題意識があるものと考えられます。トポロジー(位相幾何学)としての芸術論はアディクティッドされるポテンシャルを視線の特異点として設定しています。つまり視線の集まり方を解析していくというのがトポロジーから見た芸術論になり、視線の集まるところをトポロジカルに示すことからスタートするワケです。


 同じテキストの中で同じ語を漢字と平仮名で使い分けて表記するという吉本さんのこだわりは、同じ文章ならばすべて同じ表記でという編集者の平板な認識には理解されない…という吉本さんの嘆きがあります。宮沢賢治が複数の視点やスタンスを微細に使い分けるように、吉本さんの表現に異なるレベルを設定してレイヤーのように全体を構築していこうというダイナミックで精緻な志は大変貴重なものだと思います。
 吉本さんがテキストで「かんがえる」とひらがな表記することなどを批判しているチラシが配られたことがあるそうですが、瞬間芸以上に爆笑を誘ってくれるイベントだったともいえるでしょう。
 アートへのカウンターとなったのがスーパフラットならば、アートのクリティカルは何によってとどめを刺されたのか…考えるだけで爆笑できる現実が、そこにはあるのかもしれず、現代アートを“ロバの尻尾で描いた”と揶揄した今はなき世界最大の帝国ソビエト連邦の最高指導者の言葉は、いまになって考えるとニヤリとできるものを語ってもいたのかもしれません。

2012年8月 9日 (木)

重畳語という可能性

 重畳語というのは作家の間では避けるべき用法なのかもしれない。その理由はハッキリしないが、達者な言語表現としては評価されていないというニュアンスがありそうだ。
 言語表現が洗練?されていく過程は、西欧クラシックの音楽が12音階に収斂していく過程にも似ているイメージがある。Mウエーバー『音楽社会学』で探究したものはそういったものだったのだろう。枕詞の無意味になっていく過程そのものが日本語の進歩?の過程でもあるように、豊穣な自然音から遠ざかっていく過程こそが12音階化そのものである可能性は人間による作為の一面として確かなハズだ。もちろん、それは正しいかどうかというジャッジとはまったく関係がないことだ。

 日本古語の特徴でもあるらしい重畳語とその1回生化でもある枕詞や複合地名の形を解きながら、日本語(古語)への根本的な考察がなされる。名詞や動詞は形容詞的な意味をもって下に続く語を修飾していき、可能性としては無限に新語を生むだせる…重畳語という日本語だけの特性がフォーカスされている。この日本語の無限の可能性を示して終わるのが『心的現象論本論』の最後のセンテンスだ。

第四類(注1:角川書店『沖縄古語大辞典』から)の重畳語は日本古語の特性ともいうべきもので、語の重畳によって新語をつくりだすことができ、このばあい名詞、動詞は形容詞的な意味をもって、つぎつぎに下の語を修飾しながら、可能性としては、いくらでも新語をつくり出すことができる、そして複合地名や枕詞の形は、この重畳語ができる日本古語の造語可能性を、一回にとどめたと解することも不都合ではない。(『心的現象論本論』P511)




心的現象論本論



著:吉本 隆明

参考価格:¥ 8,400

価格:¥ 8,400





 『ハイ・イメージ論Ⅲ』現在までのあらゆる倫理と思想の無効を宣言し、共同幻想への最後の思索をめぐらせた吉本隆明は、30年以上継続した思索と連載である『心的現象論本論』では言葉への無限の可能性を示して終えている。心的現象論は未完だといわれているが、当初からこのようなエンデイングが想定されていたのではないかという感は禁じえない。“「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが”という「あとがきにかえて」の吉本さんの言葉は、その裏付けでもあるだろう。
 そして読者そのものに対しては、重畳語という形ではあるが、いくらでも新語形成が可能である日本語のポテンシャルを示してみせているのだ。ハイ・イメージ論で倫理や思想の無効を宣言した吉本さんは、心的現象論で言語の可能性を示してみせた…それは大衆の原像たる読者になんらかの期待や可能性を見出そうとしたことの証左だろうか。

 経済をめぐる状態の大きな転換にともなって、もともと経済ベースのファクター(下部構造)を最大のものとする大部分の共同体(上部構造≧国家)は整合性を失いつつある…これまでの欠如の時代から過剰の時代へのシフトによる従来の倫理や思想の無効化…。フラット化した現在の社会のコンフリクトした状況にあって、有効な思想は可能なのか?…というハイ・イメージ論が読者に問うたともいえる問題は、言語の可能性というところ以外にはヒントも解もないだろう。




ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)



著:吉本 隆明

参考価格:¥1,155

価格:¥1,155





 吉本さんは言葉の重畳が新語を生むことを指摘したが、モノの列挙をオタクの情熱だとしたポスモダからの指摘は何を意味しているのか? その一つの解に、モノの秩序に導かれる社会を理想としたルソーの指摘を読み解いた東浩紀さんの鋭さは、今さらながら、貴重だ。その拠点でもある株式会社ゲンロン「思想地図」の可能性は、どうだろうか?



一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル



著:東 浩紀

参考価格:¥1,890

価格:¥1,890




2012年8月 2日 (木)

無意識は構造化している?(ラカン)…無意識の多重性

 フロイトの<無意識>概念に対するラカンの解釈、無意識は構造化している…“無意識は言語として構造化している”…というのは鏡像段階論とともに有名だが、機序には科学的なエビデンスがなく推論の域をでない。もちろん推論でも構わないが、無意識を探究する経路には、しっかりした論理的なものがあるし、そこから推論されるべきだろう。鏡像段階論もある特定の個体では確定できるケースもあるかもしれないが、普遍的には困難だ。もちろん論それ自体がメタフォアだからという換喩としてなら…意味があるが、ラカンの体系そのものが、シニフィアンの連鎖…といった時点で臨界であるか限界であるかを感じさせるのはブレークスルーまちの証左とも取れる。アラン・ソーカルは数理的なアプローチ(の間違い)にケチをつけたというよりも、衒学そのものとしてラカンらを遊んでみせた…のでないだろうか?

 素朴な疑問はすべての科学のはじまりだが、精神分析も哲学もそれは同じハズだ。
 たとえば、無意識とは何なのか?…という設問そのものに解の端緒があることは、すべての科学的(つまり論理的)思考の基本と同じ認識になるだろう。

 <無意識>が示しているのはその指示表出のとおり<意識でない>ことか<意識できない>ことなので、ソレを探せばいいワケだ。
 <意識する>ことを<考える>ことだとすれば、論理学そのものであるかのように、<考えること>の限界や{非<考えること>}を抽出できる。つまり論理の限界が考えることの限界なので、それを抽出すればいいことになる。論理の限界は有名な定理や公理としていくつか示されているので、それをそのまま考えることの限界とすることが可能だ。

 結論からいうと、無意識は意識するということ考えるということの限界として把握できる。あるいは無意識は意識できないつまり対象化できないこととして考えても把握できる。

 意識ではないコト、意識できないコト、対象化できないコト…これらの空間性の属性をマルクスの思索方法の影響を受けている吉本式に時間性におきかえれば解への経路は明白だ。

 たとえば、乳胎児の発達という段階的なものからのアプローチが可能だ。
 そこでは、母の意識も無意識も、乳胎児の無意識を形成していく…。

以上からすぐに以下のような「無意識の多重性」が抽出できる…

 ・意識する・思考することの論理的な限界として自己言及の不可能性=自己矛盾がある。
 ・いまだ意識化・対象化できていないこととして認知不全の領域がある。
 ・母(体)からの影響=転写としての無意識があり、母の意識も無意識も子の無意識となっている。

 “無意識は言語として構造化している”というラカンの主張は、それ以上のものではないが、「無意識の多重性」は吉本理論にアタックしていてたどりついた、一つの結論だ。吉本さんは“同じことを5年以上続けたらプロとして成果ができる”とどこかでいっているが、「無意識の多重性」は7年前にゴールした解のひとつだ。

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO