予期理論やラカン…から
吉本さんが去勢から析出する思想として、または去勢(抑圧)そのものへの評価として取り上げるものにジャック・ラカンの思想があります。ラカンへの評価は高く、その読解も見事だと考えられますが、ラカンへの批判の部分で、まだここでは理解できないものがあり、そのままにしていました。ただ自分なりのラカンへの独解はありますので、ここにコピペしておきます。エディプス△の設定を対幻想から観て?と考えた部分がポイントですが、吉本理論からでは△の時点で共同幻想化(関係の関数化)であるので、それをどう捉えるかの問題に収斂するのかもしれません。
母型論(プレエディパル)→ハイエディプス論の展開の中でのポイントは、時点ゼロの関数化、ゼロへの代入、遠隔化する過程です。これは発達心理学的なものですが、吉本さんの恐ろしさはその自己幻想が析出するのは共同幻想と対幻想の軋轢であることを共同幻想論で示したことでしょう。こちらの方が生物学的(個ではなく類から見る)なアプローチでもある事実から、吉本さんが幻想論を構想した時の壮大で深遠な思慮がわかります。これは『資本論』をめぐる基本的な認識で“科学的認識とは、上昇か下降か”の論議になった見田石介の提起した問題をクリアしてしまう方法(論)です。たぶん柄谷行人さんなどは、この周辺の問題意識を空間的(価値形態論的に)にズラして(ディコンストラクションして)マルクスに可能性を見出しているので、以前に書いたように「タームから入ったのではなく思索から入った思想家だけが持つポテンシャル」からの成果になるのだと思います。読書(訓詁学)や翻訳(コンバート)といったテクノクラート的な作業はテクノロジーに代替されていきますが、思想は“場”の数だけあるという事実は西田哲学でもマルクスでも吉本でも共通した認識ではないでしょうか。<大衆の原像>とは無数の場を指すことでもあるからです。
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●予期を生む<否定性>
対幻想への否定性が共同幻想を生成していく過程は、『共同幻想論』の基本的な見解です。(宮台真司さんの『権力の予期理論』などの基礎的な認識である『権力/何が東欧改革を可能にしたか』などでも、“人間が2人出会えば必ず権力の萌芽を見出せる”ことが論証されています)
相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。
それは以下のような機序が生じる....
劣位者の対幻想の共同幻想化 (概念化?)
対象(優位者)の象徴化 (形態化?)
象徴にともなうシステム化 (規範化?)
....と考えられます。
( )は認識論として該当する位相について。
●〔<母=子>⇔父〕以前の認識
ラカンはこれを主体からみた父性(優位者)との関係として、そこに象徴界の生成(システム化)を見い出そうとしているようです。
ラカンが誤解されやすいところは、対他認識が2つの個体(あるいは主体と対象の)=2者間で行使されることを無視して父性=第三項を暴力的に介在させていること。
逆にいえば暴力=力を顕在化させるには母=子に対して父を登場させることが条件の最適化ですが、そのことによって〔<母=子>⇔父〕以前の認識や論理に関しては不可知にならざるを得ないという陥穽があります。
その不可知な領域を現実界として顕在化させたならば、それはラカンのアクロバットな知恵かもしれませんが、そのことが~以前=EXCE^{'}Sの状態として不問に付されることのイイワケにはならないでしょう。
「原初的不調和」という認識を提出しても、それ以上の探究が免除されるわけではないハズです。
このように過剰な論理性に依拠する理論こそがラカンの本質なのかもしれません。だからこそラカン自身による「フロイトへ帰れ」という言葉がスローガン化しうるワケでもあるのかもしれません。
また、一般的に理論の限界は論理の矛盾によるものであることを推察できれば、次のステップへのブレークスルーは可能でしょう。吉本理論はこの可能性に依拠したものだといえます。それは“最大の思想家”と呼ばれる根拠でもあるハズです。
●<純粋疎外>概念の可能性
過剰な論理性は必ずゲーデルの定理のような論理そのものの限界に致ります。でも、その限界にこそ、ブレークスルーを生むものとしての心的現象論の可能性を見出すこともできるハズです。たとえば<純粋疎外>はそういった可能性を秘めた概念であり論理です。それは<ゼロの発見>に相当する、境界、人工、その可能性を担保するものとしての中心となる概念装置です。
(2005.11.11,2012.7.17)
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