リスペクト!『心的現象論本論』…資本主義への解?
30数年かかって未完に終わったのが心的現象論。その序説と本論を合わせた「心的現象論」が豪華本として出ている。マニア?向けともいえるが序説(1965年~69年)と本論(1970年から97年)の合本はこれが初めて。同時に本論だけの「心的現象論本論」もでている。また「心的現象論序説」は角川で文庫化されているので古本が入手しやすい。
本論は2段組500頁を超える。うつ病などの症例から縄文土器の文様までさまざまな具体例から解き明かす内容で読むほど説得力に富んでいるが、そのエグザンプルの多さ類例の列挙には戸惑う人もいるかもしれない。理論の基礎に関する部分でヘーゲルなどへの参照が少なくなく「心的」より「現象論」としてアプローチが深い。それゆえに現象学を“遁走”へと追い詰めることに成功している。哲学や認識論が微塵にされる数百頁だ。数学者野口廣さんのトポロジー論や「ジーマンの頭脳のモデル」からニューロンの数式化とさらなる解析を行ったり、LSDの実験論文の幻肢の消滅を考察(≒クオリアの消滅)したり、D・ボームやホログラフィ理論まで、文系の問題意識に理系の解析能力を駆使した考察が数百頁にわたって詰め込まれているのが心的現象論であり、吉本さんの思想そのものに一貫するスタンスだ。ハイイメージ論が指示表出=作品・商品の列挙から帰納していくのに対して心的現象論は個別的現存=個体の観念から演繹していく。未完の心的現象論の最後は言語の生成と展開についての論考で終わっているが、『ハイ・イメージ論Ⅱ』のエンディングも言語の生成と展開についての論考で終わっている。資本主義の商品としての指示表出と個人の観念である自己表出とが結節し交換する言語への問いで、2つの著作は、まるで出会ったかのように終わっている。
『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章「消費論」はヘーゲルの動物概念が導き、選択消費が創出するフラット化した社会を示しながら、それへ対応できる知見も倫理もないことに不安の根源を見出して終わる。吉本隆明は理論的体系的な思索の最後に既存の思想や言葉が無効であることを指摘したのだ。
ここで吉本の共同幻想への思索は終わっている。この後、心的現象論の本論では個体の観念からアプローチすることをとおして、つまり心的現象論から演繹する形でさまざまな対象を取り上げ、やはり言語の生成を考察するところで未完の作業は中断される。その後、言語についての考察の形を取りながら、自身の思索を総括するかのように『「芸術言語論」への覚書』をだしたが、その論考のまとめであり仕上げがNHKで放送された講演だ(『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~ [DVD]』に収録)。次世代にアプローチできないものには世代を超えた意味や価値はないが、糸井重里の助けを借りて行われた最期のパフォーマンスは大成功のうちに終わったといえる。なぜならオーディエンスの大部分は若い世代だったからだ。
『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章で示された、過剰の時代に欠乏の時代の既存の思想や言葉が無効であることは、クリアされるべき課題として、現前にある。不安は原生的疎外が新しい現実を受容するときの閾値によるが、吉本は既存の言葉の無効を示しながらも、“よきノマド=グローバリスト?”のように楽観的だ。バブルとその崩壊に関しての論考にも悲観的な趣はなく、楽観的で古典でもあるような“自由人の自由連合”というユートピアも夢想でもないハズだ。“すべては<代入される空間性>”という認識に1つの解のヒントがある…ということを吉本隆明から学んでからもう10年以上たっている。
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