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2012年6月30日 (土)

リスペクト!『心的現象論本論』…資本主義への解?

30数年かかって未完に終わったのが心的現象論。その序説と本論を合わせた「心的現象論」が豪華本として出ている。マニア?向けともいえるが序説(1965年~69年)と本論(1970年から97年)の合本はこれが初めて。同時に本論だけの「心的現象論本論」もでている。また「心的現象論序説」は角川で文庫化されているので古本が入手しやすい。

本論は2段組500頁を超える。うつ病などの症例から縄文土器の文様までさまざまな具体例から解き明かす内容で読むほど説得力に富んでいるが、そのエグザンプルの多さ類例の列挙には戸惑う人もいるかもしれない。理論の基礎に関する部分でヘーゲルなどへの参照が少なくなく「心的」より「現象論」としてアプローチが深い。それゆえに現象学を“遁走”へと追い詰めることに成功している。哲学や認識論が微塵にされる数百頁だ。数学者野口廣さんのトポロジー論や「ジーマンの頭脳のモデル」からニューロンの数式化とさらなる解析を行ったり、LSDの実験論文の幻肢の消滅を考察(≒クオリアの消滅)したり、D・ボームやホログラフィ理論まで、文系の問題意識に理系の解析能力を駆使した考察が数百頁にわたって詰め込まれているのが心的現象論であり、吉本さんの思想そのものに一貫するスタンスだ。ハイイメージ論が指示表出=作品・商品の列挙から帰納していくのに対して心的現象論は個別的現存=個体の観念から演繹していく。未完の心的現象論の最後は言語の生成と展開についての論考で終わっているが、『ハイ・イメージ論Ⅱ』のエンディングも言語の生成と展開についての論考で終わっている。資本主義の商品としての指示表出と個人の観念である自己表出とが結節し交換する言語への問いで、2つの著作は、まるで出会ったかのように終わっている。

『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章「消費論」はヘーゲルの動物概念が導き、選択消費が創出するフラット化した社会を示しながら、それへ対応できる知見も倫理もないことに不安の根源を見出して終わる。吉本隆明は理論的体系的な思索の最後に既存の思想や言葉が無効であることを指摘したのだ。

ここで吉本の共同幻想への思索は終わっている。この後、心的現象論の本論では個体の観念からアプローチすることをとおして、つまり心的現象論から演繹する形でさまざまな対象を取り上げ、やはり言語の生成を考察するところで未完の作業は中断される。その後、言語についての考察の形を取りながら、自身の思索を総括するかのように『「芸術言語論」への覚書』をだしたが、その論考のまとめであり仕上げがNHKで放送された講演だ(『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~ [DVD]』に収録)。次世代にアプローチできないものには世代を超えた意味や価値はないが、糸井重里の助けを借りて行われた最期のパフォーマンスは大成功のうちに終わったといえる。なぜならオーディエンスの大部分は若い世代だったからだ。

『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章で示された、過剰の時代に欠乏の時代の既存の思想や言葉が無効であることは、クリアされるべき課題として、現前にある。不安は原生的疎外が新しい現実を受容するときの閾値によるが、吉本は既存の言葉の無効を示しながらも、“よきノマド=グローバリスト?”のように楽観的だ。バブルとその崩壊に関しての論考にも悲観的な趣はなく、楽観的で古典でもあるような“自由人の自由連合”というユートピアも夢想でもないハズだ。“すべては<代入される空間性>”という認識に1つの解のヒントがある…ということを吉本隆明から学んでからもう10年以上たっている。

2012年6月29日 (金)

3つの細胞の由来

 受精卵が胎胚細胞に発展するときに3種類の細胞ができます。
 内胚細胞、中胚細胞、外胚細胞3種の胚葉細胞です。
 人間のすべての細胞はこの3つの系統のどれかからできます。

 やがて内胚は内臓、中胚は筋肉や骨格、外胚は皮膚と目などの感覚と脳になります。
 機能的には内臓は植物系、筋肉や骨格は動物系だといえます。つまり植物系は無意識でも働いていて、動物系は意識してはじめて運動するということです。
 根源的には植物系は恒常的な生命の維持そのものが目的であり、動物系は外部に働きかけて栄養などを獲得することが目的です。
 外胚から発達する神経系である皮膚や感覚は外部の情報を収集します。そして脳がそれを認識し内臓や筋肉へ指示をだします。脳は外胚から内部へ陥入した器官です。

 現実にはこれらの3つの系統の器官は相互に絡まって1つの器官や組織を形成して機能し、全体として身体と心身のシステムを構成しています。
 肺のような器官は恒常的に無意識に呼吸していますが、それを意識的に止めることもでき、また敏感に空気の汚れを感じて反応したりもします。肺では3つの細胞の由来が機能として1つに統合されているのです。そして運動やストレスで呼吸が乱れるのは人間だけだといわれています。

 このことは人間だけが3つの細胞の由来が身体心身のいろいろな面で統合されている可能性を示しています。それは逆に3つの細胞の由来がそれぞれいろいろなところで表出する可能性を示してもいるでしょう。普段は無意識に働いている呼吸を意識的に止められるように、無意識な身体的な反応や機能をコントロールできる可能性があります。たとえば便意や尿意も意識的に止められます。このことは反対に意識的な機能や行為が無意識や意識できないものによって影響を受け左右される可能性も示しています。それは緊張やストレスで汗をかいたり震えたり血圧が上がったり....さまざまな現象が考えられます。そればかりか現実には意識そのものが無意識に左右され影響を受けています。

 結果としてそれらの究極の現象であり、あるはそういったことの原点だとも考えられるのが例えば統合失調症です。そこでは考えてもいないのに考えが浮かび、見てもいないのに幻覚が観え、聞いてもいないのに幻聴が聴こえます。

 吉本隆明さんこの統合失調症の由来を三木成夫さんの解剖学、フロイトの心理学などを援用して考察しています。
 それは逆に統合失調症的な症状から人間の可能性を探った論考だともいえます。ハイ・イメージ論などに結実したJ・ケージやニーチェ、カフカへの論考にそれらはダイレクトに表出しています。

 人間が植物系、動物系、神経系の3つの細胞から形成される事実からの論考は、身体に依拠しながらも身体に還元できない心的現象を、ギリギリまで追い詰めたものでもあるでしょう。


 日本のポストモダン的なトレンドのスタートを準備した市川浩身体論なども、三木解剖学の知見に大きな影響を受けています。(思想(史)的には中村雄二郎の『共通感覚論』がある)

 

『ハイ・イメージ論Ⅲ』で共同幻想への最後の思索を巡らせた吉本隆明さんは、『心的現象論本論』で個体への徹底的な考察に入ることになります。心的現象としても神経生理学や解剖学的な見地としての閾値の問題としても、リアルな個体の問題がフォーカスされていきます。



           
胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))

著:三木 成夫
参考価格:¥735
価格:¥735

   

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 これら吉本さんの全体像を総合して考えると、そのスタンスは市井の思索者だったというよりは完全にノンジャンルのオールラウンドな知識人だったことがわかります。市井であるのは、倫理の問題としてであり、自ら肩書きを拒否し続けることによって“よき人々との別れ”を活かし?続けたようなイメージがあります。物語としての悲劇が永遠であるように、永遠の倫理を自らのものとしようとしたかのように、別れを反芻したのではないでしょうか。

2012年6月25日 (月)

モノクロをカラーにする<心>とシステム

 モノクロの微細な線で描かれた模様や絵が、部分的にカラーに見えることがあります。
 虹色のグラデーションが見え、際の方ではゆらゆらと動いて見えたりする現象です。心理学では錯覚だとされていますが、もちろん、これは錯覚ではありません。視力検査の時に多少ボヤけてる線の周辺がカラーに見える現象を体験した人は少なくないでしょう。
 これらは知覚として、“そう見えるようになっている”ために、そう見える現象です。つまり、そう見えるシステムがそこにはあるワケです。そのことを理論的に説明できるレベルの発見と思索は“最も難解な本”といわれる吉本隆明さんの『心的現象論序説』にしか手がかりがありません。

 ある感覚を刺激すると、他の感覚が変化して敏感になるような現象があります。文字を読む時に黒い文字に色が見えたり、音楽を聴くと景色が色彩豊かに見えたり、何かを想うと何かが見えてきたり…する、共感覚というものがあります。美味しい食べ物を思い浮かべると味覚がして唾液が出てくる…というのも単にパブロフの反応といわれるものだけではなく、これらの共感覚といわれる現象のせいもあるのではないでしょうか。詩人ランボーの文字には色がある…という有名な詩があるほどで、この共感覚という現象は珍しくはありません。

 ただし共感覚は共感覚を持っている者それぞれで千差万別。人ごとに異なる現象で普遍的ではありません。
 一方、モノクロの線がカラーに見える現象は普遍的で、誰でも経験できるもの。微細な線で描画されたものがあれば、誰でもすぐに確認できるものです。

 赤い色が“アハッ”と思うほど感動的な赤い色に見えるのも、この現象の延長にあるものだと考えられます。それが「クオリア」と呼ばれる現象の実態です。

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 問題はどうしてモノクロがカラーに見えるのか? その理由です。

 これは誰でも無刺激の部屋に入ると30分くらいで幻覚を見てしまうという心理実験で確認されている現象と似ています。感覚に刺激がないと、刺激の元(原因)をでっち上げてしまう心理作用が人間にはあり、物理的に存在しないものを観念的(心理的)にフレームアップしてしまうワケです。これは人間ならではの、想像力などの源泉となる能力の一つだと考えられるものでしょう。

 モノクロの微細な模様(だけ)では見極めがつかない…それを見極めようと、モノクロの視覚像に価値判断として着色してしまう…というのが、この現象の機序だと推論することができます。

 このことから2つの重要なことがわかります。
 人間は分からないことに対して分かろうとする強い志向性を持っている…そのために、見極められないモノクロの模様に対して、本来は知覚以降の価値判断の次元にある色彩の違いを、感覚の末端である視覚の領域にも影響させて視覚を過剰コントロールあるいはオーバードライブさせている、ということです。吉本理論の言語論の表現でいえば指示表出に自己表出が影響を与えてしまっているということであり、言語としては無価値である名詞に価値の志向を与える助詞のような意味作用が加わってしまった状態といえるでしょう。この状態がアートであり『言語にとって美とはなにか』の<美>が指し示すものになります。

 この心理的な作用=心的現象の根本には、心理を動かしている基礎となる感情があります。
 感情とは怒りとか悲しみだけではなく、むしろこういった心的現象をコントロールする動因としての機能があります。『心的現象論序説』で<中性の感情>と呼ばれるものがそれです。<純粋疎外>という概念装置を使えばこれは<純粋感情>というものになります。

 『心的現象論序説』を読むと、数行あるいは数ページにこれらの原理が提示されています。



   対象に対する知覚の空間化度と
   対象への了解の時間性が空間化した感情がシンクロした場合、
   これを<純粋感情>とする。

                           (『心的現象論序説』P135~36)


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 もうひとつ、感覚システムそのものの限界としてモノクロの微細な線の集合にカラーを感じる機序があります。これは『心的現象論本論』で詳細が説明されているもので、閾値の問題。微細すぎて感覚が受容しきれない結果としてオーバーフローした視覚情報がカラー化される過程が解説されています。



   人間は色知覚をもった他の動物とおなじように、
   白色光(画光)の統御下におかれながら、
   この統御にたいして<完備>できないとき、
   色相として対象を把握するということができよう。

                          (『心的現象論本論』P8)


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心的現象論本論

著:吉本 隆明
参考価格:¥8,400
価格:¥8,400





 “人間は人間に解決できる問題しか提起しない”というのはマルクスのクールな言葉ですが、この言葉を幾度となく実感させてくれたのは吉本さんの著作でした。

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このエントリーの「分かろうとする強い志向性」と「閾値の問題」は認識全般のラジカルなものとして文系理系といったものを超えたノンジャンルで提起され、解を求められるもの。吉本隆明は大きなヒントを示し続けてくれています。

(2014/1/13)

2012年6月12日 (火)

<対幻想>論を超える?『超恋愛論』

 <超対幻想>という言葉があるとすれば、それは従来の対幻想論を超えているかもしれません。事実、吉本さんの『超恋愛論』という本は数多くの著作のなかで、もっともラジカルな問題提起がされています。

 三角関係と友だちとバイオレンス
 あるいはファシズムとゲイ

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 アメリカでも多いドメスティック・バイオレンスですが、アメリカなど欧米の家庭内暴力の特徴は夫が妻に暴力を振るうこと。
 日本の家庭内暴力には外国のそれと違う特徴があります。子供が親に暴力を振ることで、これはまた日本の固有の現象に近いようなひきこもりとセットになっていることが多いようです。

 家庭内暴力の発生と増長?の原因として“私的な秘密”が考えられます。

 

 日本の家庭や共同体の特徴に、外部に対して家庭内(共同体内)のことを秘密にするというのがあります。
 また、上位の共同体に対して秘密にするという傾向もあるでしょう。

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 一般的に、個人が生まれそこに帰属する家族という領域があります。対幻想と共同幻想が錯綜?し、あらゆるものに発展する可能性のある領域です。ダイレクトには<大衆の原像>の依拠する場所になります。

 この領域(幻想領域)を社会全体のなかに位置づけるとある特徴が顕著になります。社会的な多くの共同幻想がこの幻想領域より上位として扱われているのではないか?と思われる傾向があることです。これに関しては共同幻想論の論考の中でももっとも価値のある吉本さんの指摘があります。現行の共同幻想は通時的に前段の共同幻想を対幻想化する、あるいは近隔化する、または矮小化する、という傾向があることです。おそらくこの延長には国家や宗教のラジカルな問題=理由がある考えられます。それは国家や宗教の問題はそれが幻想であるということや信じるから成立するといったフォイエルバッハのような多くの思想家が到達した認識の次元にはありません。誰もが幻想をもつならば、特定の幻想を指摘してもあまり意味が無いからです。それより、幻想相互の関係を指摘した<関係の絶対性>といったような吉本さんの指摘の普遍性が、フラット化した現在社会でこそ価値を発揮する認識となるでしょう。

 一般的に私的なものが公的なものに対して秘密である、あるいは私的なものは外部や上位に対して秘密であるという傾向は、<関係の絶対性>のある特徴を現しているものと考えられます。

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 上位(あるいは外部)からみれば、秘密である下位(あるいは内部)の意志はどのようなものなのでしょう。
 簡単にいえば、公的な位置から私的なものはどのようなものなのか?ということです。

 対幻想の意志がそのまま共同幻想の意向に反映されることはないように、共同幻想の意向(掟、法を含む)が対幻想の意志を汲み取ることもないでしょう。では、汲み取られたり反映されたりすることのない意志や意向はどのように扱われるのか? 無視されたり否定される意志とはどのようなものなのか?
 答えはカンタンです。極論としてはそれらは共同幻想からは“罪”として規定されるワケです。
 国家や宗教によって罪の概念や種類が違うのは、単に国家や宗教の違いに由来すると考えられます。

 たとえば、天津罪・国津罪のように罪の定義が錯綜するのは発展段階、歴史的階程そのものが錯綜していることの反映でしかありません。そして罪の主体、罪人も英雄も演じさせられているスサノオの姿と物語は、錯綜する共同幻想を反映した象徴的な存在ということになります。

 天津罪は農耕民族が主導した規定であり、国津罪がより原始的(アフリカ的段階)な罪であると認識できます。また歴史的な変遷を前提とすれば天津罪は経済的(一次産業上的)な罪であり、国津罪は共同体に即した罪であるともいえます。個別科学にとらわれることがなかったこれらの認識が、共同幻想論を他を圧倒する論考にしているといえます。

  共同観念に属するすべてのものに、
  大規模で複合された<観念の運河>を
  掘りすすめざるをえなかった。

 以上のように古代の支配階層、知識人の意図からそのレベルまでを見切った『共同幻想論』は、訓詁学では到達し得ない認識と、機能分析では接続できないリアルへのアプローチを示してくれました。

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 思春期の恋愛の特徴に友だちを通してアプローチするというのがあります。交際を申し込むのも、付き合いを断るのも、共通の友だちを通してコミュニケートするワケです。
 たとえばA男の恋心を友だちであるB男がメッセンジャーとしてC子に伝えます。あるいはD子がC子の気持ちをA男に伝えるのかもしれません。とにかく友だちが気持ちを伝達するメディアとなるわけです。3者の関係はA→B→Cというリニアな伝達関係です。

 やがてこのリニアな3者関係は2者関係になります。
 メディアでしかないBは排除され、A→Cの関係になります。
 本来の目的である2者関係になるわけです。
 伝達役であった共通の友だち(のようなもの)を排除して1対1の関係に入ります。
 これが大人への第一歩ですね。

 ここでの大きなポイントは伝達役が必要とされると同時に必ず(その後)そのメディア役は排除されるということです。はじめに3者が相互に知り合いである△関係があり、それがメディア役を間に挟んだリニアな関係となり、まもなくメディア役は排除されて(正常な、近接性を高めた)2者関係(対幻想)になります。

 この対幻想はメディア(伝達役、第3者)を排除して成立することがわかります。
 これは母子関係の自他不可分を初源とする次元の対幻想とは違います。
 母子関係自他不可分<時点ゼロ>からスタートする<差異ゼロ>の状態です。
 しかし、△関係からの特定の一項を排除して成立する対幻想は違います。
 そこにははじめから△関係という社会性があります。

 初源の対幻想と△関係からの対幻想。
 対幻想には2つの次元があることがわかります。

 初源の対幻想は、認識の祖型となり、人の一生のあいだの認識を左右すると考えられます。
 しかし、△関係からの対幻想は初源の対幻想を踏まえ(抑圧、去勢)つつ、遡行不可能な認識として人間のその後の認識に影響を与えそうです。象徴界が言語や法の世界であるというのは、このことそのものでしょう。遡行不可能な度合いそのものが象徴化の度合いそのものであるということでもあり、それは、“強度”のスケールでもあると考えられます。

 これらの点から逆に、ひきこもる、つまり外部に対して閉ざす(自己が秘密になる)という事態に対して、第3者による強制的な介入を解決手段とする斎藤環さんの認識は正当(正統)なものといえるでしょう。また、これらの機序として、対幻想と共同幻想の関係の絶対性を見出しているのは吉本さんの原理的な思考の深さを示しています。

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 『超恋愛論』つまり<超対幻想>といったタイトルが示しているものは、完成した他の論考より深いものがあります。
 そこには、吉本さん自身が示しているように、三角関係や友だち、バイオレンスあるいはファシズムとゲイといった問題へのヒントや解があるワケです。
 (フラット化した社会でのリアルなオーダーでは審美的な価値をめぐるアプローチなどで“つけ耳はなぜ魅惑的か?”つけ耳に萌えてしまうのはナゼか?”といったような東浩紀さんらのものがあります。スノッブなフランス現代思想では解が見当たらない“誘惑”や“化粧”といったものへのラジカルなアプローチがそこにはあります。吉本さんでいえばハイ・イメージ論の世界になります。)



           
超恋愛論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,470
価格:¥ 1,470

   

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