<超対幻想>という言葉があるとすれば、それは従来の対幻想論を超えているかもしれません。事実、吉本さんの『超恋愛論』という本は数多くの著作のなかで、もっともラジカルな問題提起がされています。
三角関係と友だちとバイオレンス
あるいはファシズムとゲイ
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アメリカでも多いドメスティック・バイオレンスですが、アメリカなど欧米の家庭内暴力の特徴は夫が妻に暴力を振るうこと。
日本の家庭内暴力には外国のそれと違う特徴があります。子供が親に暴力を振ることで、これはまた日本の固有の現象に近いようなひきこもりとセットになっていることが多いようです。
家庭内暴力の発生と増長?の原因として“私的な秘密”が考えられます。
日本の家庭や共同体の特徴に、外部に対して家庭内(共同体内)のことを秘密にするというのがあります。
また、上位の共同体に対して秘密にするという傾向もあるでしょう。
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一般的に、個人が生まれそこに帰属する家族という領域があります。対幻想と共同幻想が錯綜?し、あらゆるものに発展する可能性のある領域です。ダイレクトには<大衆の原像>の依拠する場所になります。
この領域(幻想領域)を社会全体のなかに位置づけるとある特徴が顕著になります。社会的な多くの共同幻想がこの幻想領域より上位として扱われているのではないか?と思われる傾向があることです。これに関しては共同幻想論の論考の中でももっとも価値のある吉本さんの指摘があります。現行の共同幻想は通時的に前段の共同幻想を対幻想化する、あるいは近隔化する、または矮小化する、という傾向があることです。おそらくこの延長には国家や宗教のラジカルな問題=理由がある考えられます。それは国家や宗教の問題はそれが幻想であるということや信じるから成立するといったフォイエルバッハのような多くの思想家が到達した認識の次元にはありません。誰もが幻想をもつならば、特定の幻想を指摘してもあまり意味が無いからです。それより、幻想相互の関係を指摘した<関係の絶対性>といったような吉本さんの指摘の普遍性が、フラット化した現在社会でこそ価値を発揮する認識となるでしょう。
一般的に私的なものが公的なものに対して秘密である、あるいは私的なものは外部や上位に対して秘密であるという傾向は、<関係の絶対性>のある特徴を現しているものと考えられます。
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上位(あるいは外部)からみれば、秘密である下位(あるいは内部)の意志はどのようなものなのでしょう。
簡単にいえば、公的な位置から私的なものはどのようなものなのか?ということです。
対幻想の意志がそのまま共同幻想の意向に反映されることはないように、共同幻想の意向(掟、法を含む)が対幻想の意志を汲み取ることもないでしょう。では、汲み取られたり反映されたりすることのない意志や意向はどのように扱われるのか? 無視されたり否定される意志とはどのようなものなのか?
答えはカンタンです。極論としてはそれらは共同幻想からは“罪”として規定されるワケです。
国家や宗教によって罪の概念や種類が違うのは、単に国家や宗教の違いに由来すると考えられます。
たとえば、天津罪・国津罪のように罪の定義が錯綜するのは発展段階、歴史的階程そのものが錯綜していることの反映でしかありません。そして罪の主体、罪人も英雄も演じさせられているスサノオの姿と物語は、錯綜する共同幻想を反映した象徴的な存在ということになります。
天津罪は農耕民族が主導した規定であり、国津罪がより原始的(アフリカ的段階)な罪であると認識できます。また歴史的な変遷を前提とすれば天津罪は経済的(一次産業上的)な罪であり、国津罪は共同体に即した罪であるともいえます。個別科学にとらわれることがなかったこれらの認識が、共同幻想論を他を圧倒する論考にしているといえます。
共同観念に属するすべてのものに、
大規模で複合された<観念の運河>を
掘りすすめざるをえなかった。
以上のように古代の支配階層、知識人の意図からそのレベルまでを見切った『共同幻想論』は、訓詁学では到達し得ない認識と、機能分析では接続できないリアルへのアプローチを示してくれました。
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思春期の恋愛の特徴に友だちを通してアプローチするというのがあります。交際を申し込むのも、付き合いを断るのも、共通の友だちを通してコミュニケートするワケです。
たとえばA男の恋心を友だちであるB男がメッセンジャーとしてC子に伝えます。あるいはD子がC子の気持ちをA男に伝えるのかもしれません。とにかく友だちが気持ちを伝達するメディアとなるわけです。3者の関係はA→B→Cというリニアな伝達関係です。
やがてこのリニアな3者関係は2者関係になります。
メディアでしかないBは排除され、A→Cの関係になります。
本来の目的である2者関係になるわけです。
伝達役であった共通の友だち(のようなもの)を排除して1対1の関係に入ります。
これが大人への第一歩ですね。
ここでの大きなポイントは伝達役が必要とされると同時に必ず(その後)そのメディア役は排除されるということです。はじめに3者が相互に知り合いである△関係があり、それがメディア役を間に挟んだリニアな関係となり、まもなくメディア役は排除されて(正常な、近接性を高めた)2者関係(対幻想)になります。
この対幻想はメディア(伝達役、第3者)を排除して成立することがわかります。
これは母子関係の自他不可分を初源とする次元の対幻想とは違います。
母子関係の自他不可分は<時点ゼロ>からスタートする<差異ゼロ>の状態です。
しかし、△関係からの特定の一項を排除して成立する対幻想は違います。
そこにははじめから△関係という社会性があります。
初源の対幻想と△関係からの対幻想。
対幻想には2つの次元があることがわかります。
初源の対幻想は、認識の祖型となり、人の一生のあいだの認識を左右すると考えられます。
しかし、△関係からの対幻想は初源の対幻想を踏まえ(抑圧、去勢)つつ、遡行不可能な認識として人間のその後の認識に影響を与えそうです。象徴界が言語や法の世界であるというのは、このことそのものでしょう。遡行不可能な度合いそのものが象徴化の度合いそのものであるということでもあり、それは、“強度”のスケールでもあると考えられます。
これらの点から逆に、ひきこもる、つまり外部に対して閉ざす(自己が秘密になる)という事態に対して、第3者による強制的な介入を解決手段とする斎藤環さんの認識は正当(正統)なものといえるでしょう。また、これらの機序として、対幻想と共同幻想の関係の絶対性を見出しているのは吉本さんの原理的な思考の深さを示しています。
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『超恋愛論』つまり<超対幻想>といったタイトルが示しているものは、完成した他の論考より深いものがあります。
そこには、吉本さん自身が示しているように、三角関係や友だち、バイオレンスあるいはファシズムとゲイといった問題へのヒントや解があるワケです。
(フラット化した社会でのリアルなオーダーでは審美的な価値をめぐるアプローチなどで“つけ耳はなぜ魅惑的か?”つけ耳に萌えてしまうのはナゼか?”といったような東浩紀さんらのものがあります。スノッブなフランス現代思想では解が見当たらない“誘惑”や“化粧”といったものへのラジカルなアプローチがそこにはあります。吉本さんでいえばハイ・イメージ論の世界になります。)
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超恋愛論
著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,470
価格:¥ 1,470
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