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2012年5月17日 (木)

『家族のゆくえ』…フーコーの手つきで明かされる対幻想

<大衆の原像>のベースとなるのは家族。その家族はどこへ行ったのか、どこへ行こうとしているのか…吉本隆明、渾身の書下ろし!
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<戦後最大の思想家>による究極の家族論

 「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の言葉からはじまり、逆の指摘をするシュンペーターの主張も参照しながら、乳幼児の発達成長をフーコーの手つきで「身体の考古学」として解いてみせ、そこから家族のナゾ=対幻想が明らかにされていく。本の帯にある「渾身の書下ろし!」のコピーは24年前角川書店による著作の初文庫本化時の宣伝文<戦後最大の思想家>とあわせて考えるとけっこう感動ものかもしれない。何か元気がでる刺激を与えてくれるのだ。著者をめぐる環境は...つまらない左翼風言説、他にすることが無いのか?と思わせるような意味不明の反発、最近問題?の若者以上に意味なしのプライド?が原因で読解不能に陥っているアカデミシャン...とあまりにもマンガチックで不幸だが、資本主義はこうやって本書のような価値ある商品を届けてもくれる。それに気がついたとき、元気がでるのは当然だ。この戦後最大の思想家は、いよいよ今こそ読まれなければいけない存在なのだと思う。

赤ちゃんにとって母親は、心身ともに全世界になるこんな当たり前のコトが当たり前に主張されている。それも力強く、一生をかけてそれを主張したかったようにだ。ここに著者の魅力と説得力があるような気がする。

 要所でフーコーと自らの共通概念が示されるが、それは著者が世界レベルであることを示しているというよりも〝衆愚であること〟〝一人であること〟が大切なのだという一貫した思想を示しているに過ぎないのだろう。ゲイとして究極の〝単独者〟を生きたフーコーとかつて〝自立の思想〟でカリスマとなり、現在は自らひきこもりであることを表明しながら繊細で大胆な提案をしてみせる著者には深い共通点があるに違いない。繰り返すが、著者は、今こそ読まれるべき思想家なのだと思う。

(2009/04/19)
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家族のゆくえ (学芸)

著:吉本 隆明
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『母型論』は系統発生OK

『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』

2012年5月16日 (水)

『言語にとって美とはなにか』…「自己表出」「指示表出」「共同幻想」

吉本隆明氏逝去のあと「自己表出」「指示表出」や「共同幻想」が多く検索されている。
「自己表出」「指示表出」は本書『言語にとって美とはなにか』の代表的なテクニカルタームだ。

本書は「戦後最大の思想家」といわれた吉本隆明の代表作。「戦後最大の思想家」というのは新聞に掲載された吉本本の宣伝のキャッチコピーで、このあとに「僕たちはこの人を超えなければならない」という言葉が続く。政治的な『共同幻想論』、心理学的な『心的現象論序説』とともに吉本の原理論を構成する初期3部作の一つで言語学であるとともに批評の学ともいえる。

吉本理論で有名になった言葉で<共同幻想>があるが、これには3つの呼び方がある。心的現象論では<幻想的共同性>、言語論では<社会的幻想>と呼ばれ、<共同幻想>というのは共同幻想論での呼称だ。それぞれのスタンスで同じ公的幻想(マルクス)への呼び名が異なるようになっている。概念装置としてディテールまで考慮された用語でもあるのだ。

このことに対しての評価は賛否両論で失笑したくなるものもあるが…。
『構造と力』で衝撃のデビューをしたアンファンテリブル浅田彰氏は『近代日本の批評』(浅田彰, 三浦雅士 , 蓮實重彦, 柄谷行人 )紙上で「テニヲハが合っていない」「用語が我流」で「論理的につながっていない」「最悪の意味で「詩的」」と『言語にとって美とはなにか』をdisり、一方で橋爪大三郎氏(『永遠の吉本隆明』『はじめての構造主義』ほか)は「吉本術語は」「最小限の用法」で「読者の多くが知っている概念になるべく即して、自説を展開しようとする」と評価し、「フランス現代思想」を「あるところでは先んじている」と「高く評価できる」としている。

この差は何だろうか?

       -       -       -

<自己表出><指示表出>は言語の属性を表していて、それぞれ両極となる言葉だ。
すべての言語(品詞)がこの2つの属性の間に入る。注意すべきはこの両極は完全に分離されているという意味ではなくグラデーションになっていること。ポスモダ式にいえば<自己表出>はパフォーマティブ、<指示表出>はコンスタティブに対応するだろう。

吉本の著作なかではよりデリケートに扱われていて、自己表出は確定されるもので指示表出は決定されるものである。自己表出の代表的なものは助詞、指示表出の代表的な品詞は名詞。つまり、自己表出の概念は自己の内面(納得し確定する)のもので、指示表出の概念は他者あるいは公的に決定されているものだ。第三者の審級といった意味も含意するだろう。

助詞と名詞が両極だが、すべての言語はこの2つのグラデーションの統一体であり、かならず両者のニュアンスを含んでいる。

自己表出で<犬>というと、自分が飼っている犬のことだったり、犬と散歩に行くスケジュールの事だったり、そろそろドッグフードを買っておかなくちゃということだったり、それぞれの個人に固有の認識にともなう<犬>の概念になる。つまり価値判断としての<犬> だといえる。指示表出は<犬>という動物を示している。名辞概念としての<犬>であり、そこには個人による価値判断は含まれていない。対象を指し示す形態とその規範としての<犬>なのだ。

自己表出の代表である助詞の場合はこれらが極端になる。たとえば助詞の<は>や<が>だけでは何を示しているかは不明だ。名詞や動詞などをともなって主体の意志(価値判断による)による志向を示すのであって、それ自体では他者にとっては不明だ。つまり社会性を示すことができず、主体の内面だけの何らかの表出ということ以外には意味内容を決定しえないのだ。

芸術とはこの自己表出のポテンシャルが高まって指示表出を獲得しうるようなものをいう。公的な指示ではなく自己の沈黙を基点とする何らかの表出がそれ自体で公的な水準の価値を超えてしまったものであり場合だ。これは逆に表出を享受する場合でも同じで、単なる指示表出から沈黙に至るまでの豊富な価値を感得できるかどうかということであり、また未熟な表出から何らかの内面を見出そうとするのがセンスでもあるだろう。ホントの詩人は石とも話すというのは、そういうことなのだから。

吉本隆明が芸術言語論として最期に言いたかったことは、彼が最初に活動し始めたときの問題そのものだったのではないか。

戦後最大の思想家は大きな課題を残して逝ってしまった。
私たちは彼を超えられるのだろうか?

           
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2012年5月 5日 (土)

バブル崩壊、中流意識瓦解と<大衆の原像>

<大衆の原像>とは何か? あらためて考えたのは宮台真司さんの指摘がキッカケ。
コム・デ・ギャルソン論争で、どこまでも大衆を肯定する吉本隆明にギョーテンした…という宮台さんの指摘があった。ディコンストラクションなどポスモダの論者である柄谷行人さんや岩井克人さんは大衆の原像は高度成長で消失したと考えたようだ。ホントにそうなのか?

       -       -       -

1970年代の高度成長で大衆の原像は消失したというのも、91年のバブル崩壊あるいは97年の平成不況で中流意識は肯定できなくなったというのも、ハズれているが、半分は当たっていると解して考えることもできる。

大衆の原像は特定のエートスや何かではなく、その時その時のTPOや歴史に限定される大衆のあり方そのものであって、特定の内容があるわけでない。その証拠に大衆からは革命もファシズムも、何でも生まれる。特定の性向をもった属性があるというものではないのだ。

経済学がモノとモノとの関係をとおして社会を把握するように、社会学は多様な概念装置をとおして社会を把握しよとする。別のいい方をすれば、概念装置を手放すことはできないため、常に何らかの依拠する装置を必要とするだろう。問題はその概念装置のリアルな適合性だ。その点からは宮台さんの主張は必然だが、検証もまた必要なのだ。吉本さんがコムデギャルソンを着て中流意識を肯定した時に、大衆の原像に沿ったのか、中流意識を肯定したのかという問いはあまり意味が無い。まず考えられるべきは大衆の原像が中流意識そのものであるかどうかの是非のはずだ。事実関係からいえば、その時の大衆の原像が中流意識というものだった…ということにすぎないのかもしれない。あるいはそうでないかもしれないしズレがあるのかもしれない…。これらはそもそも<大衆の原像>の定義により大きく違ってくるだろう。

<大衆の原像>とは何なのか?

シェアハウス的なもの=<大衆の原像>は現代をクリアするか?

           
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       -       -       -

吉本さんが一億総中流時代では中流意識を肯定し、中流意識瓦解後はバラバラになりつつある中間共同体のそれぞれを表象する表出物(商品や作品)、個別のカルチャーを批評していったハイイメージ論などの仕事は、自覚的な作業だ。その過程でひきこもりや沈黙を肯定したのも当然。誤解してはいけないのは、サブカルを対象としたことや沈黙を肯定したことは吉本隆明自らの理論が有効だからこそ行われた作業だということ。東浩紀さんの仕事がサブカル評論だと揶揄?する論者がいるが、バブルが崩壊し中流意識が瓦解した後はサブカルから語れない者に社会は語れない。それは、マルクスは資本主義社会を何から語ったか?という問題だ。小林秀雄は文学を何から語ったか?

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』
           

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国民国家があり、メガトレンドがあり、大企業があり、全般を把握する思想がある…という気楽で無自覚なスタンスからは中流崩壊以降の社会は把握できないのは当然だ。バブルと中流崩壊以降フツーに社会を解析し続けた吉本さんに対して“大衆の原像”は消失したというのは、自らの思考能力の消失を大文字の他者に鏡像させているようなものかもしれない。

そしてどの時代であろうと対幻想を基盤とする領域が基礎だという認識は変わらない。これが関係の絶対性の基盤になるものだ。諸々の関係全般が関係の絶対性だとしているのではない。ユダヤ教からキリスト教が離脱する不可逆性、知ってしまった者が不知へは戻れない不可塑性…吉本さんはそういう関係性を絶対と呼んだ。同時に対幻想から遠隔化した共同幻想も要素のマテリアルな変更なしでは関係の絶対性となる。もちろん逆にマルクスのように要素を変更すればあらゆる共同幻想を解体しうると考えることもできる。それが革命だ。

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「「大衆の原像」が像を結び続けるためにこそ、「再帰性を十分に意識した共同体自治のスモール・ユニットが大切だ」と言って欲しかった」という宮台さんの言葉がある。この言葉は半分当たっていて半分外れている。外れている分は彼の誤解によるだろう。再帰性が保障される最小単位のユニットこそ、対幻想、つまり家だ。彼はそれを見逃している。近現代の問題であり解でもあるとしてよく取り上げる近接性も、対幻想では言語や理性なしにでも肯定される。(もちろん言語や理性なしにでも肯定されるということそのものが対幻想のラジカルな定義だが)

           
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一般的に近接性や親和性を排除する強制力を暴力というが、逆に問答無用で近接性や親和性が肯定される暴力的ともいえる領域がある。<自然>だ。自然な近接性や親和性は性を基盤とするものがほとんどであり、マルクスでも吉本でもそれは共通の認識になっている。人間存在が個であるのに類であることを可能せしめている契機は何か?というマルクスの問い(『経哲草稿』など)は対幻想によって解答されたと考えてもいいほどのものだ。対幻想は(人)類を可能とする唯一の<自然>にほかならないからだ。逆に、長年続いてきた問いに、人間はなぜ個体化するか?個別的現存は独りなのか?というものがあるようだ。そして今後も解はなしに人間が存在する限りこの問いは続くのだろう。こういった超越論的?な問いに対しては東浩紀さんのような「ひとは何故超越論的問題に取り憑かれるのか」という問い返しが有効かもしれない(これは問うことそのものが自己発現でしかない可能性をも含意しているだろう)。解のない問いを繰り返すという常同反復行為は自己認知願望のビョーキだが、止めることはできないものなのかもしれない。

この<自然>を対象化しうる能力が人間であり、自然のままなのが動物であるのはヘーゲル=マルクスにおける自然過程と動物概念の基礎になる。この基本的な認識を貫徹、むしろ前面に掲げている思想家は東浩紀くらいかもしれない。「マルクス主義が崩壊」した(表層的ではあるが)ことを正直に嘆く東浩紀荻上チキの対談「「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(最終回)」WEBRONZAのこの記事はいつの間にか削除されている。こうやって宣言なしで不可視化されるものはあまりにも多いのかもしれない。その理由こそがいちばんの解へ至る経路のはずだが…)はいまや貴重ともいえる。この対談でデリダを援用した本当の理由を語った彼にその繊細さが顕れている。デリダが場所的限定に否定的なことを指摘しつつ、ペンと紙がなければ手紙が書けないことを主張していたというデリダの否定神学的な態度そのものを東がフォローし続けた、その理由だ。「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する」という『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』での指摘はマルクス経由のリバタリアニズムプラグマティズムっぽいが、資本論の散種?として説得力があるものだ。

           
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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対幻想=家の近接性は家父長制に代表されるような非言説的な同調圧や、それらを積分して成立する封建制などからの離脱と自由を求めるトレンドからある意味否定されてきた。しかし311以降の絆に象徴されるだけではなく、シェアハウスにも見られるように擬似家族的なトレンドは高齢者のグループホームをはじめ、ニューファミリーの再来のような家族の見直しもあり、より顕在化しつつある。

<大衆の原像>という定理に対して、具象としてのさまざまな中間共同体の属性が問われるが、それは定理を否定するもではない。そして<大衆の原像>を導き出す公理として対幻想=親和的関係があることが最重要だ。

親和的関係が近接性なしの関係=公的関係に遠隔化する時に、その過程を判断する思索の体系を思想という。その思想は親和的関係に依拠しそれに立脚しようとする。吉本さんが「現実的な思想」と呼ぶのはそのことなのだ。

ついでに指摘しておくと、新しい共同幻想は前段の共同幻想を対幻想へと近隔化?させる…という『共同幻想論』の指摘が意味するところは大きい。

           
改訂新版 共同幻想論 角川文庫ソフィア (角川ソフィア文庫)

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(2015/7/7)

2012年5月 1日 (火)

<ゼロ記号>としての<大衆の原像>

人間は<家>において対となった共同性を獲得し、それが人間にとって自然関係であるがゆえに、ただ家において現実的であり、人間的であるにすぎない。市民としての人間という理念は、<最高>の共同性としての国家という理念なくしては成りたたない概念であり、国家の本質をうたがえば、人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものであるにすぎなくなる。だから、私達は、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない。(『自立の思想的拠点』P157,158)

「現実的な思想をもちうる」のが「大衆の原像においてだけ」というのは何を示しているのだろう? 「人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものである」…そして、ここでだけ「現実的な思想をもちうる」という。

情況へのコンテクストで繰り出されてきた<大衆の原像>という概念も3部作に代表される原理論で捉えたほうが分かりやすいかもしれない。「人間は<家>において対となった共同性を獲得」というのは家が対幻想と共同幻想が同致する唯一の領域であることを、「自然関係」というのはマルクスやヘーゲルの認識と同じように<家>が縦横の性関係を基盤とした場であることを示している。

人間の基盤として実体的なのは<家>だけだ…というのは吉本隆明の3部作のタームでいえば次のようになるのかもしれない。

対幻想(親和的関係)の領域だけが実体的だ…

対幻想の領域におけるイメージこそが<大衆の原像>を指していることになる。
社会的、政治的な認識(つまり情況へ)の前提でありコアとなる<大衆の原像>が生成する場所は対幻想の領域なのだ。

ひとつの言葉に自己表出と指示表出の2つの位相が必ずあるように、<大衆の原像>には親和的関係(対幻想)と公的関係(共同幻想)の2つの位相がある。この共同幻想(へ)のベクトルは言語や制度や他者や外部への契機となるもの。このために<大衆の原像>は、社会からはこの共同幻想へのベクトルの表出(指示決定)ではかられ、<大衆の原像>のなか(成員)からは価値(自己確定)として判断されるはずだ。<実体(的)>とは大衆の原像のなかで価値化されるものにほかならないだろう。

まったく違ういい方をすると、大衆の原像の構成員?どうしの関係(対幻想)とその関係を(外へ向かって)表象するものがあるともいえる。関係(の絶対性のひとつの側面)と、その表象だ。この表象は指示表出であり、関係は対幻想そのもの。だがこの対幻想は遠隔化する可能性を常にもっている。マテリアルとテクノロジーが人間が個のままで生きていける可能性を拡張すれば、対幻想は拡散する。単独者とはその究極に想定される存在だろう。フーコーが単独者といった場合でもそれは同性愛とは関係なく、このコンテクストで単独者とされるべきではないだろうか。

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対幻想だけが実体的で、そこでだけ現実的な思想をもちうる…。
逆に、対幻想以外は非実体的であり、それは非現実的だ…。
そして非実体的なもの非現実的なものを可能にしているのは心的現象そのものである…。
それは<関係>を可能にし、<夢>を可能にし、<想像>することを可能にしている
…。
その中でも現実に還元できないイメージこそ、高次の心的現象として、あらゆる可能性を可能にしている…。

この現実に還元できない観念についての考察を可能にした方法が、吉本さんが“観念の弁証法”と呼ぶヘーゲルの方法だ。特に現実に依拠するが現実に還元できないパートは、ヘーゲル弁証法の特異点的な属性そのものかもしれない。

たとえば、『共同幻想論』「他界論」では、現実に還元できない観念の世界の存立構造が描かれている。エグザンプルは遠野物語だが、そこから現実に還元できない観念の世界へ至る経路が導き出されている。同じ作業は『心的現象論序説』「心的現象としての夢」での考察でもなされている。

       -       -       -

抽象度が高い<大衆の原像>だが、それは真理がシンプルであることを体現するようなイメージがある。

1から9までの自然数であった実体としての数は0の発見と設定で集合や論理学としての可能性を開いたように、0(ゼロ)の設定は決定的なものだ。しかもゼロは最も抽象的であり、即物的には可視化できない。しかしこのゼロは数字、数値とのコラボで無限の可能性を発揮している。

このゼロに相当するものを社会科学、人文科学に設定したのなら、その可能性は無限とも万能ともなるかもしれない。

結論からいうと<大衆の原像>とは、<ゼロ記号>であり<ジョーカー>だということがわかる。あるいは、<大衆の原像>を<ゼロ記号>としてとらえると、3部作をベースにした全理論が見事なトーナリティのもとに統合されているのがわかる…ともいうことができる。
<大衆の原像>は、社会認識、大衆論におけるゼロの発見といえる。
それは本blogで主唱するように<純粋疎外>概念や<対幻想>が<時点ゼロの双数性>であるのと同じことだといえるだろう。
純粋疎外はどこかへ向かってベクトル変容し、あらたな心的現象を生成していくが、<純粋疎外>そのものに内容があるのではない。それは<ゼロ>だ。ただベクトル変容の方向によって原生的疎外との差延に何らかの価値を生成しているのだ。

アバウトにいえば、<大衆の原像>とは対幻想が成立しうる現実的な空間にともなうイメージであり、これをゼロと仮構することで、そこからの差延(遠隔化)である言語や制度に価値(内容)を見出すことができる、ということになる。差延のベクトルはもちろん共同幻想であり、引用文でいえば国家がその頂点にある。

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「現実的な思想」とは大衆の原像を繰り込んだものにほかならない。絶えず大衆の原像に向かって再帰する思想だけが現実的な思想なのだ。

吉本隆明は、あまりにも当たり前のことをいってきたといえるだろう。
「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った…高橋源一郎がいうように、ほんものやゼロという概念は、ひとつしかないのかもしれない。


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