人間は<家>において対となった共同性を獲得し、それが人間にとって自然関係であるがゆえに、ただ家において現実的であり、人間的であるにすぎない。市民としての人間という理念は、<最高>の共同性としての国家という理念なくしては成りたたない概念であり、国家の本質をうたがえば、人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものであるにすぎなくなる。だから、私達は、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない。(『自立の思想的拠点』P157,158)
「現実的な思想をもちうる」のが「大衆の原像においてだけ」というのは何を示しているのだろう? 「人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものである」…そして、ここでだけ「現実的な思想をもちうる」という。
情況へのコンテクストで繰り出されてきた<大衆の原像>という概念も3部作に代表される原理論で捉えたほうが分かりやすいかもしれない。「人間は<家>において対となった共同性を獲得」というのは家が対幻想と共同幻想が同致する唯一の領域であることを、「自然関係」というのはマルクスやヘーゲルの認識と同じように<家>が縦横の性関係を基盤とした場であることを示している。
人間の基盤として実体的なのは<家>だけだ…というのは吉本隆明の3部作のタームでいえば次のようになるのかもしれない。
対幻想(親和的関係)の領域だけが実体的だ…
対幻想の領域におけるイメージこそが<大衆の原像>を指していることになる。
社会的、政治的な認識(つまり情況へ)の前提でありコアとなる<大衆の原像>が生成する場所は対幻想の領域なのだ。
ひとつの言葉に自己表出と指示表出の2つの位相が必ずあるように、<大衆の原像>には親和的関係(対幻想)と公的関係(共同幻想)の2つの位相がある。この共同幻想(へ)のベクトルは言語や制度や他者や外部への契機となるもの。このために<大衆の原像>は、社会からはこの共同幻想へのベクトルの表出(指示決定)ではかられ、<大衆の原像>のなか(成員)からは価値(自己確定)として判断されるはずだ。<実体(的)>とは大衆の原像のなかで価値化されるものにほかならないだろう。
まったく違ういい方をすると、大衆の原像の構成員?どうしの関係(対幻想)とその関係を(外へ向かって)表象するものがあるともいえる。関係(の絶対性のひとつの側面)と、その表象だ。この表象は指示表出であり、関係は対幻想そのもの。だがこの対幻想は遠隔化する可能性を常にもっている。マテリアルとテクノロジーが人間が個のままで生きていける可能性を拡張すれば、対幻想は拡散する。単独者とはその究極に想定される存在だろう。フーコーが単独者といった場合でもそれは同性愛とは関係なく、このコンテクストで単独者とされるべきではないだろうか。
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対幻想だけが実体的で、そこでだけ現実的な思想をもちうる…。
逆に、対幻想以外は非実体的であり、それは非現実的だ…。
そして非実体的なもの非現実的なものを可能にしているのは心的現象そのものである…。
それは<関係>を可能にし、<夢>を可能にし、<想像>することを可能にしている…。
その中でも現実に還元できないイメージこそ、高次の心的現象として、あらゆる可能性を可能にしている…。
この現実に還元できない観念についての考察を可能にした方法が、吉本さんが“観念の弁証法”と呼ぶヘーゲルの方法だ。特に現実に依拠するが現実に還元できないパートは、ヘーゲル弁証法の特異点的な属性そのものかもしれない。
たとえば、『共同幻想論』の「他界論」では、現実に還元できない観念の世界の存立構造が描かれている。エグザンプルは遠野物語だが、そこから現実に還元できない観念の世界へ至る経路が導き出されている。同じ作業は『心的現象論序説』の「心的現象としての夢」での考察でもなされている。
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抽象度が高い<大衆の原像>だが、それは真理がシンプルであることを体現するようなイメージがある。
1から9までの自然数であった実体としての数は0の発見と設定で集合や論理学としての可能性を開いたように、0(ゼロ)の設定は決定的なものだ。しかもゼロは最も抽象的であり、即物的には可視化できない。しかしこのゼロは数字、数値とのコラボで無限の可能性を発揮している。
このゼロに相当するものを社会科学、人文科学に設定したのなら、その可能性は無限とも万能ともなるかもしれない。
結論からいうと<大衆の原像>とは、<ゼロ記号>であり<ジョーカー>だということがわかる。あるいは、<大衆の原像>を<ゼロ記号>としてとらえると、3部作をベースにした全理論が見事なトーナリティのもとに統合されているのがわかる…ともいうことができる。
<大衆の原像>は、社会認識、大衆論におけるゼロの発見といえる。
それは本blogで主唱するように<純粋疎外>概念や<対幻想>が<時点ゼロの双数性>であるのと同じことだといえるだろう。
純粋疎外はどこかへ向かってベクトル変容し、あらたな心的現象を生成していくが、<純粋疎外>そのものに内容があるのではない。それは<ゼロ>だ。ただベクトル変容の方向によって原生的疎外との差延に何らかの価値を生成しているのだ。
アバウトにいえば、<大衆の原像>とは対幻想が成立しうる現実的な空間にともなうイメージであり、これをゼロと仮構することで、そこからの差延(遠隔化)である言語や制度に価値(内容)を見出すことができる、ということになる。差延のベクトルはもちろん共同幻想であり、引用文でいえば国家がその頂点にある。
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「現実的な思想」とは大衆の原像を繰り込んだものにほかならない。絶えず大衆の原像に向かって再帰する思想だけが現実的な思想なのだ。
吉本隆明は、あまりにも当たり前のことをいってきたといえるだろう。
「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った…と高橋源一郎がいうように、ほんものやゼロという概念は、ひとつしかないのかもしれない。
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