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2012年4月21日 (土)

共同幻想の最後の思索、フラット化する社会…『ハイ・イメージ論Ⅲ』

共同幻想へのアプローチとしては最後の言葉かもしれない文章で『ハイ・イメージ論Ⅲ』は終わっている。そこではフラット化した社会で既存の思想や倫理の無効が宣言されているのだ。

 P288 「消費論」…
  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。


共同幻想論』の「現在」版を展開する…この吉本隆明の言葉どおり、その到達点として『ハイ・イメージ論』がある。

 P289 「あとがき」…
  ハイ・イメージ論のモチーフは、いちばんわかりやすくいえば、
  『共同幻想論』の「現在」版を展開することだったといっていい。


大和書房の全撰集7・『イメージ論』には以下のような説明があり、それは「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」ことを目指し、哲学や現象学が定義しきれないできた<イメージ>について問い、それを根拠に現在を把握していこうとする作業だという。つまり言語では対象化できないものへのアプローチであり、そして言語ではないものによってこそ三部作に分離していたものを総合的に扱える…と考えたのはある意味で衝撃的でありラジカルだ。そこには形態と概念とイメージの生成についての思索がめぐらされ、それらが規範と化す過程では必然的に共同(幻想)性が解き明かされていく…。個体の心的現象が規範を形成しつつ、そのフォルムから逆に心的現象が規定されていく過程は吉本理論だけがもつトーナリティだ。

 『イメージ論』…
  言語の概念をイメージの概念に変換することによって
  三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。


その理由については『ハイ・イメージ論Ⅰ』の第二章にあたる「ファッション論」であらかじめ説明されている。臨死体験とCGから世界視線を提起し、高度情報化による価値の変化を考察する「映像の終わりから」の次の章にあたる。(「映像の終わりから」の情報社会論的な分析はジャック・アタリ『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具』などを想起させるものがある)

 P59「ファッション論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』…
  ヘーゲルはここでも徹底的だが、
  いちばんだいじなことは、直接的なもの、自体的なものの系列と
  媒介的な認識の系列とを細部にわたるまで、いつも意識して区わけし、
  ふつうふたつを混同してつくりあげている偽の像を
  うち砕く論理を発揮していることだ。


『ハイ・イメージ論Ⅰ』の解説でまっさきにこのことに言及する芹沢俊介さんの指摘は的を得ている。これは3部作も含めて吉本理論全般を貫徹する基礎的なスタンスなのだ。古典であるヘーゲルとアバウトなサルトルらは、この基本的なスタンスで真価を発揮している。タームから入ったのではなく思索から入った思想家だけが持つポテンシャルを示しているといえるかもしれない。

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この過剰や格差の縮まりが示すものは経済的な問題そのものではない。もちろん上部構造(共同幻想)が下部構造(経済)に影響されるのは確かだとしても、欠如ではなく過剰に由来する問題はいちばん下部構造に影響を受けないものだからだ。精神が身体に依拠するが身体に還元できない…という心的現象論の基点は、共同(幻想)性のレベルでもまったく同じ問題を提起している。過剰に由来する問題の本質は、まったく経済には還元できないからだ。(ある意味でデフレがそうだが…)

たとえば食の欠如は最終的に餓死を招くが、食の過剰は招くものが多様だ。しかもその様相は食には還元できないものばかりになってしまう。過剰そのものを病み、糖尿病になり、癌になり、ゴミの山ができ、清掃工場があちこちにできる…過剰な分だけどこかで何かが不足する…などなど。

共同体(性)を根本的に内破したのは、共同体の過剰生産(拡大再生産)だったという事実は、剰余価値に資本主義の本質を見出したマルクスのハードコアな認識でもある。

飢え死にするのではなく飽食を病み、摂食過剰に苦しむことは、欠如の時代には認識できない事がらであり想像するなど無理だったに違いない。どのような知見も思想もそれを想像さえ出来なかっただろう。だがマルクスが資本論以前に言及している問題(経済学批判序説など)のひとつがこれなのだ。ビンボー人が満腹を、金持ちが美食を求めるのはナゼか?といった問題は経済の問題と審美の問題が同致している。このステージが全面化する世界をマルクスは予想していたようだ。それが現在であり、フラット化した社会だろう。

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互いに欠如を補いあう関係はそのまま経済的関係であり、そのまま共同体形成の動因でもあるが、その逆は、想像もつかないことを吉本隆明はあたりまえのように前提にしている。そのために、従来の知見や思想に対して、ハイ・イメージ論は企てられたときから既に理解を超えたものであることがわかる。そのことはハイ・イメージ論へのまともな論評が存在しないことそのものが示してもいるだろう。

昼寝が大事だというアンリ・ルフェーブルのつぶやきを、それだけで評価した吉本隆明には、フラットな社会は不可思議ではないだろう。問題は、過剰と格差の縮まったフラットな社会を描き出すことができるかどうか…だけ…だったのかもしれない。資本論窓ぎわのトットちゃんが等価であるとした吉本隆明の指摘は有名にもなったが、まさしくそれはすべてが等価=フラット化した社会への指摘だった。しかも吉本は「そうせよ」と主張し続けたわけだ…。

『重層的な非決定へ』では以下ようにシンプルな指摘が破壊力となって波及した。コム・デ・ギャルソン論争で真価を発揮した吉本の思念は、その数年後ハイ・イメージ論として結晶する。埴谷あるいは左翼?に与するならば「ファッション論」ひとつでもいいから批評してみるべきだろう。

『重層的な非決定へ』…
  「資本論」と「窓際のトットちゃん」とを同じ水準で、
  まったくおなじ文体と言語で論ずべきだ。

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フラットな社会を抽出し、思索し、批評する作業に有効なタームはあるのか。概念装置は…? ハイ・イメージ論はすすむにつれ世界視線のようなタームも概念装置も消え、オルト・パラ・モジュラスなどの物理化学用語からの援用も繰り返されることはなく論考だけが進んでいく…。透徹しているのは<純粋疎外>概念を駆使した思索だけかもしれず、あらゆるモノゴトを微分していく論考は消費をめぐるマルクスの考察との比較検討で終わっている。それが動物化に導かれながら社会のフラット化を示唆して終わる「消費論」だ。正確にはフラット化した社会では思想や倫理が無効なこと、そのことが現在の不安の根源であることを示して、終わっている。もちろん不安の初源は心的現象論序説が示しているとおり原生的疎外が新たな現実を受容する際の閾値にある。ハイ・イメージ論がフラットな現実に対して思想や倫理の無効を宣言しながら終わり、その後、心的現象論本論でプリミティブな文様や錯覚、現象学、LSDの実験、各種精神疾患、理論物理学や数学者による心的現象へのアプローチなどをクリティカルに思索し続け、それも言語の生成と展開への思索途中で未完に終わっている。

『日本語のゆくえ』で現代詩人の内容のなさに危機感を表明しながら、『「芸術言語論」への覚書』とその講演(『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』)で沈黙を評価する…『心的現象論序説』では無表情は内面のなさを指示するものではないと指摘し、むしろ内面を読みとる必要を示す…。言葉をめぐって吉本隆明は思索をめぐらせ続けた。

現実から見た言葉や思想の無効と、言葉から見た現実への関与の無効…吉本隆明はこの円環を確認して知を着地させたのかもしれない。

2012年4月20日 (金)

「きみならひとりでもやれる」し、「おれが前にいる」よ…

「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ。大学を離れ、世間との関係をたって十年後、ぼくは小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。

吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ。

高橋源一郎氏による吉本隆明さんへの追悼文「思想の「後ろ姿」」から一部抜粋

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「ポップ文学の最高の作品」は吉本隆明さん宛に書かれた作品だったのか…。

今はもう存在しないある国立のエリート大学。その入学式の日にしか大学へ行ったことがない高橋源一郎さんはひきこもりやニートの原形かもしれない。それから10年間。彼はポップ文学の最高の作品、『さようなら、ギャングたち』でデビューする。

村上春樹、糸井重里村上龍、それ以前の筒井康隆栗本薫…この自然過程のうえに生成された言語オブジェクト…。吉本隆明はそれを「ポップ文学の最高の作品」と絶賛した。

同時にそれはあらゆる批評を超えた作品でもある。
吉本隆明にさまざまな分野のプロが怯えたように、この作品もあらゆる批評家をそっと無力感に叩き込んだようだ。

阿部和重に覚悟させた作品でもある。

だが「ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ」という認識はひとりではない。みんなが「ひとり」である世界に我々は生きているのではないか。そしてハイデガーとは逆で、死は自分のものでさえない。これらを自明の認識とした吉本隆明は、そうだろ?とぼくたちの前を歩いたり、走ったりしながら、どこかへ行こうとしていた。その後ろ姿は、大きな目印だ。

どこへだろう?

これから、一つでも探すものができたことを楽しみつつ、暮せるかもしれない。

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「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。
ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

               (村上春樹『1973年のピンボール』

人々はストリートで出会うのではない、すれ違うのだ…というルフェーブルの言葉は、「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」…という村上春樹『1973年のピンボール』の言葉とともに数少ない真理なのかもしれない。友だちとの別れを知っている吉本さんはいう。それは純粋ごっこだと。自らの思想(大衆の原像)と実存にこれほど乖離のない人はいない。宮台真司も早い時期から自分の主張はすべて自分の実存の問題なんだと独白している。ネットの世界は広い…草薙素子にこう言わせる(後に対義語?的に「いつでもそばにいる」ともいわせている)押井守も、メディアの拡張と自我の拡張を峻別できないコッケイ(≒異常の拡散)を激しく批判(『コミュニケーションは、要らない』)する。世代もジャンルも言葉も違っても同じことを同じように感受し思索する人たちはいるようだ。

「ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ」という思いと、そういう認識はひとりではない、という認識には、論理クラスタの混同以外には問題がない。しかも論理上の問題を解決できる論理はない。真の問題は、この問題が本当は混同ではなく逆立するものだという認識が獲得できるかどうかだけなのだ。

そういうことを、吉本さんからたくさん学んだ気がする。

合掌

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さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

    解説:加藤 典洋
    参考価格:¥1,260
    価格:¥1,260

   
           
1973年のピンボール (講談社文庫)

著:村上 春樹
参考価格:¥420
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コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

著:押井 守
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都市革命 (1974年)

翻訳:今井 成美
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