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2012年3月24日 (土)

吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~ NHK3月25日

「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」が再放送されます。(以下NHK・ETV特集より)

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戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。
2012年3月16日、87歳で亡くなりました。3年前のご活躍を追ったETV特集を再放送します。

84歳の吉本さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。

「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かってもらえるかが勝負です。」

車椅子に乗って登場した吉本さんは、2千人を超える聴衆を前に、3時間にわたり休むことなく語り続けた。

詩人にして文芸評論家、そして思想家。文学や芸術だけでなく、政治・経済、国家、宗教、家族や大衆文化まで、人間社会のあらゆる事象を縦横無尽に論じてきた吉本さん。彼は、今、私たちに何を語りかけるのか。

番組は、吉本隆明が自らの思想の核心「芸術言語論」を語った3時間の講演を記録、戦後60年以上かけて紡いできたその思想の到達点を描く。

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糸井重里さんによる吉本隆明さんリナックス化計画などは以下をご覧下さい。

「ほぼ日刊イトイ新聞」「吉本隆明プロジェクト」

2012年3月20日 (火)

<「反核」異論>でみる吉本隆明さん

原発は人類の原罪…というのが今回の原発事故への吉本さんの認識。一般にテクノロジーと倫理や道徳の問題は理解しにくいが『「反核」異論』について考えてみるとわかるかもしれない。冷戦時代のアメリカとソ連の対立は数万発の核兵器を並べてにらみ合った、炎の七日間戦争直前みたいな状態がソ連崩壊まで続いた。吉本隆明が反対したのは反核運動が反米運動にかたよっていたことと現実への直視がないことの2点。政治的には左翼が指導していたことへの批判に象徴される。この点は賛否両論で激論を招いているが、本質はそこにはない。本質、つまり大衆の原像からは、現実への直視ができているかどうかにかかっている。

冷戦は各地で紛争を激化した。ベトナム戦争をはじめ多くの第三世界の解放闘争では支配権力をアメリカが支持し、それに反抗する解放戦線などにソ連が支持をあたえた。60年代にアフリカ、70年代には中南米などで欧米による植民地や支配は消滅する。80年代にはソ連による支配もほころびはじめアフリカやアフガニスタンで紛争となり東欧では民主化のビロード革命がはじまる。やがてこれらはソ連そのものを崩壊させることになる。第2次世界大戦後、現在まで世界各地で解放闘争からアルカイダによるテロまで武器による紛争が続いていて、犠牲者は数千万人を超えている。どこでも一般大衆がいちばん犠牲になっている。吉本隆明はその現実を直視する。


広島長崎の原爆を別とすれば核兵器による犠牲者は出ていない。だがカラシニコフ銃や地雷といった小火器、通常兵器による犠牲者は数千万人を超えている。この事実を吉本さんは重視する。それに核兵器が使用されないのは反核運動の成果ではなく支配階層の恐怖によるもの。この点では支配階層がもとめた核抑止力は見事に効果をあげていたといえる。一方小火器による紛争は今日まで世界のどこかで毎日起こっており、犠牲者は毎日でている。世界中の大衆の犠牲は終わることなく続いている。反対すべきは核ではなく通常兵器だ…。最大値をだす要因に対処するのがもっとも必要な最適化であることは、ジャンルを超えて共通の認識だろう。小火器の犠牲者数の多さから小火器を取り締まるのは当然だし必要なことだ。なぜ犠牲者がいない核兵器の反対運動に力をそそぐのか…。吉本さんの異論は正当すぎるほどのものといえる。数量的な検討、パレート効率、どこをとっても規制されるべきは小火器なのだ。では反核運動とはいったい何なのか? 

吉本さん自身は日本の核武装に反対し憲法9条を人類の遺産だと高く評価している。問題は現実に犠牲者がいない核兵器に対する反核運動とは何を示しているのか? 政治的には、アメリカの核に反対するなら同じレベルでソ連の核に反対すべしというスタンスがあるが、もっとラジカルな問題がありそうだ。それは共同幻想の問題だ。


現実に毎日犠牲者がでている小火器には無関心で、現実的な可能性のない核に反対する態度に強迫観念を見出すことはカンタンだろう。現実的直接的に核兵器使用の可能性がないのに不安や恐怖を感じるとすれば、それは関係妄想だ。自己の安全のことだけで膨張した観念による、典型的な共同幻想だといえる。中間層の自己の生活とその安寧だけで豊満した観念は他者のことを思いやる余裕がない。毎日世界のどこかで犠牲になっている民衆のことなど考えることなく自己の不安を払拭するためだけに行われる反核運動…。それは、古典的な左翼用語で言いえばプチブル動揺というものかもしれない。

強迫観念を持つのはしょうがないとしても、現実の犠牲者のことを思念できないのは愚かなといわざるをえない。少なくともここで倫理や道徳を問うことは可能だろう。吉本隆明は8月15日を境に態度を急変した知識人(プチブル)の自己保身、自己の正当化と同じものを反核運動に感じたのではないか。311以降、流行りの絆やソーシャルといったものにそういったものの片鱗を感じてしまう人間も現在ではいるかもしれない。思想とはそういう可能性を論じるものでもあるはずなのだから。だからこそ現在では思想がなくなったともいえるが。


           
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2012年3月16日 (金)

<戦後最大の思想家>…僕たちは、この人を超えなければいけない

父が死んでも泣かないが、吉本隆明さんが死んだら泣く…糸井重里さんの言葉にハッとしたことがあった。これほどのリスペクトは考えられない。親愛といったらありふれているが、そうでないはずだと勝手に期待している自分がいる。

吉本さんは、娘でも考えがちがって対立したら殺しうる…どこかでそういう断言さえしていた。母はホントのことはいわない、それがホントのことですよ…辛辣どころではないことを理論の中でも語っている。



一般意志に大衆の原像をオーバーラップしながら、まあ考えても何かが変わるわけでもないしと思うも、自分が変わることは想定外だったりするのかもしれない…。

最近、仕事の合間に「言語にとって美とはなにか」を読んでいたら<社会的幻想>という言葉があった。公的関係(共同幻想)を言語のファンクショナルからみたときの言葉だ。



   「戦後最大の思想家」

…この言葉は吉本さんの本の宣伝コピーだ。
これはキャッチで、続きがある。

   「僕たちは、この人を超えなければいけない」

…そんな感じのサブコピーを、以前、古新聞のスクラップで、見た。
サブコピーは、当時のどこかの大学生のものらしい。



NHKの吉本さんのドキュメントでBGMに「イン・ア・サイレント・ウエイ」を使っているのを聴いて感動したのがよみがえってきたりする。




   対なる幻想
   共同の幻想

…と書いた色紙が飾ってある千駄木のお店に行ってみようと思っていたことを思いだした。
レバカツは食べないけど、万惣のホットケーキが無くなるのもさみしいもので、今度行ってみようかなと思ってる。



朝、仕事でニュースを見ていて吉本さんの訃報を知った。
浅田彰さんの以前のコメントが紹介されていた。

2012年3月 1日 (木)

『一般意志2.0』…ノンバーバルな革命思想?

感覚的で重層的非決定的な、空気を読む革命思想?…
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フランス革命を準備したひっきーの思想がよみがえる…?

●ひっきーの思想?
 本書が主張する「一般意志2.0」はムズカシイものではないらしい。なぜなら「知覚することができるはず」(P90)のものだから。しかも「理念でも物語でもなく、具体的にデータベースとしてどこかのサーバーに格納されている」「実在する」(P91)もの…なのだ。いきなりだが、読んでいると、それはアンティーク?な知識でいうリバイアサン(ホッブス)、上部構造(マルクス)、共同幻想(吉本隆明)とかで含意されてきたものと同じだなと思う。それが圧倒的にわかりやすく身近なものとして解説されている。

 「一般意志2.0」のルーツはルソーの『社会契約論』

 そのルソーはひきこもりのオタク的?な思想家だったという。思想家はどうでもいいけど、ひきこもりだったのは興味深い…というよりシンパシーを感じてしまう。そういえば仏文学の講義で習ったフランス革命のリーダーたちはひっきーぽいのはたしかだった。ロベスピエールサン=ジュストもシャイな人で他人とのコミュニケーションがあまり得意ではないらしかった(でもモテ系だったらしい)。まあ問答無用でお前はギロチンなっ!ということではないと思うけど…。しかし実際に著者は「一般意志の生成のためにはコミュニケーションは必要ない」(P170)と説明してる。それが「ひきこもりの作る公共性に賭けた思想家」ルソーのベースにあるポリシーだと…。
 コミュニケーションなしで何をどうするんだろ?とちょっと心配、でも、ちゃんと説明がある。ルソーの理想は「意識ではなく無意識に」、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会」(P165)なのだ。これなら納得。当たり前のコトだけど古代の鉄器から産業革命まで、社会を発展させてきたのはテクノロジーとマテリアルだからだ。経済学でいうとモノとモノの関係が支える社会を資本主義と呼んだ『資本論』と同じだ。スタティックな基盤としてはベースが物でも情報でも変わりはない。

●「一般意志2.0」って何?
 「一般意志2.0」の内容は?…「情報環境に刻まれた全市民の行為と欲望」(P117)だという。ジジェクラカンが登場しそうな雰囲気だが、実際にフロイトの「無意識」で著者は説明している。

 そしてこの「全市民の行為と欲望」を担保するものとして、複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所スコット・ペイジの理論が紹介されている。それはペイジの『多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』で紹介されている「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」(P31)の2つの定理、法則?だ。

 コミュニケーションなしで、ただ知覚できるだけで、「一般意志2.0」での政治や社会が可能なのか?と疑問に思う人は多いはず。だが著者はシリアスに現実を指摘する。
 「現代人はいくら言葉を交わしても、「繋がり」を深めるだけでいかなる普遍性にも辿りつかない。」(P109)
 そのとおりで、しかもそれは昔からのことだと思う。
 たぶん哲学でも思想でも、個人と全体とか共同体とかとの関係は長い間のテーマだったはず。でも、どこにも、共同性や共同体と個人との関係(繋がり)にちゃんとした答えを出した思想や思索はない…。もし答えがあったのなら、今頃、人間は苦労なんてしてないはずだ。個人と個人の関係であれば恋愛だったり親子愛だったり友情であったり、答えに近いものを知ることはできるかもしれない。なのに個人と全体、個人と共同性とかになると、もう全然答えなどない。あるいは答えらしきものがあり過ぎてコンフリクトしてるだけだ。超高度資本主義からアルカイダまで、どこにも答えがないのが現実だ。この答えがない、というリアルに、本書はささやかだけど、カウンターを打ち込んだ気がする。

 著者は「未来についての夢だ」というけれど、案外はやくリアルな夢になるような気がする。少なくとも、本書を読んだら、ちょっとは元気になるはずだ。褒め過ぎかもしれないが、ある意味ですごい本だと思う。

●<重層的非決定>?とか
 アルチュセールが「資本論」から読み取った<重層的決定>(全体意志?の積分?)といったヘーゲル的な意志の積分に対して、<重層的非決定>と揶揄した吉本隆明さんの指摘がある。それが「一般意志2.0」とオーバーラップしそうだ。
 著者の『動物化するポストモダン』「思想地図」で名指しでリスペクトされていた数少ない思想家、吉本隆明さんの代表作『共同幻想論』を思い起こさせるイメージがある。まあ著者が影響は受けていないがアディクティッドされそうだという吉本さんの仕事との共通点はあるのかもしれない。

 本書は結論への準備として<憐れみ>を動物的な概念とするローティを紹介し、その「私的で身体的な反応が、公的な論理的で熟議の限界を壊す」(P212)と主張する。私的で身体的という究極の近接性?が論理を超えるのは当然(血コワイ怪我イタイとかはカンタンに論理を超えるし)かもしれない。そして、その反応=ジャッジを公共性や社会性のために演繹?させるスキームはどんなものなんだろ?というテクニカルな問題が著者を含めて読者みんなに投げられている。

 「たがいに憐れみを抱き」「公共性が担保される」(P220)というのはまるで文学の世界観だけど、シェークスピアを持ち出すまでもなく悲劇の共有は読者やオーディエンスにとって最大公約的なスタンスだ。隣人や相手の欠落を補い合うのはもっとも普遍的な共同体(性)の原理なのだから。(もっとラジカルに人間の関係性は恋愛から国家まで、同じ原理(性差)で通底してると考える『経済学・哲学草稿』の問題提起はここでも有効かもしれない)
 ただココには、憐れみをめぐる2つの立場からの“憐れんでもらってウレシイ?”という疑問や“憐れんでやるヨ!”という態度?などニーチェが示唆したような問題があるかもしれない。前者は屈辱を後者は傲慢を隠蔽しているのではないか…。

 結論?の「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する」(P240)というのはベタな批判を浴びそう。でもそこで批判者の理解力や思考能力がバレるのもたしか。著者はいつもイジワルに読者で遊んでいる感じもする。『社会契約論』の原文を読んで作田啓一や桑原・前川の訳が意訳であることに気がついたのが本書のキッカケでもあるらしいのだ。それを無視して本書を社会契約論の文脈とは違う!と批判するのはあまりにも稚拙だ。本書や著者そして読者を一般バグとレッテルする一般バカが登場するのも著者のイジワルさが原因かも?

 ハイデガーは、世界への配慮こそが人間(現存在)の基礎をなすと考えた」(P251)という本書最後の注1はいちばんラジカルな主張だ。反対?に“自己への配慮”というものを考えていたらしいのがフーコー。同じように考える(特にフーコーとの対談以降)吉本さんの理論によればこの2つの配慮は相互に転換し、発展していくもの。自己と世界が不可分の胎児の認識は、そこからの遠隔化と近接化を繰り返しながら発展するからだ。精神分析もそこまで読むともっと有効なはずだ…。
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