感覚的で重層的非決定的な、空気を読む革命思想?…
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
フランス革命を準備したひっきーの思想がよみがえる…?
●ひっきーの思想?
本書が主張する「一般意志2.0」はムズカシイものではないらしい。なぜなら「知覚することができるはず」(P90)のものだから。しかも「理念でも物語でもなく、具体的にデータベースとしてどこかのサーバーに格納されている」「実在する」(P91)もの…なのだ。いきなりだが、読んでいると、それはアンティーク?な知識でいうリバイアサン(ホッブス)、上部構造(マルクス)、共同幻想(吉本隆明)とかで含意されてきたものと同じだなと思う。それが圧倒的にわかりやすく身近なものとして解説されている。
「一般意志2.0」のルーツはルソーの『社会契約論』。
そのルソーはひきこもりのオタク的?な思想家だったという。思想家はどうでもいいけど、ひきこもりだったのは興味深い…というよりシンパシーを感じてしまう。そういえば仏文学の講義で習ったフランス革命のリーダーたちはひっきーぽいのはたしかだった。ロベスピエールもサン=ジュストもシャイな人で他人とのコミュニケーションがあまり得意ではないらしかった(でもモテ系だったらしい)。まあ問答無用でお前はギロチンなっ!ということではないと思うけど…。しかし実際に著者は「一般意志の生成のためにはコミュニケーションは必要ない」(P170)と説明してる。それが「ひきこもりの作る公共性に賭けた思想家」ルソーのベースにあるポリシーだと…。
コミュニケーションなしで何をどうするんだろ?とちょっと心配、でも、ちゃんと説明がある。ルソーの理想は「意識ではなく無意識に」、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会」(P165)なのだ。これなら納得。当たり前のコトだけど古代の鉄器から産業革命まで、社会を発展させてきたのはテクノロジーとマテリアルだからだ。経済学でいうとモノとモノの関係が支える社会を資本主義と呼んだ『資本論』と同じだ。スタティックな基盤としてはベースが物でも情報でも変わりはない。
●「一般意志2.0」って何?
「一般意志2.0」の内容は?…「情報環境に刻まれた全市民の行為と欲望」(P117)だという。ジジェクやラカンが登場しそうな雰囲気だが、実際にフロイトの「無意識」で著者は説明している。
そしてこの「全市民の行為と欲望」を担保するものとして、複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所のスコット・ペイジの理論が紹介されている。それはペイジの『多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』で紹介されている「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」(P31)の2つの定理、法則?だ。
コミュニケーションなしで、ただ知覚できるだけで、「一般意志2.0」での政治や社会が可能なのか?と疑問に思う人は多いはず。だが著者はシリアスに現実を指摘する。
「現代人はいくら言葉を交わしても、「繋がり」を深めるだけでいかなる普遍性にも辿りつかない。」(P109)
そのとおりで、しかもそれは昔からのことだと思う。
たぶん哲学でも思想でも、個人と全体とか共同体とかとの関係は長い間のテーマだったはず。でも、どこにも、共同性や共同体と個人との関係(繋がり)にちゃんとした答えを出した思想や思索はない…。もし答えがあったのなら、今頃、人間は苦労なんてしてないはずだ。個人と個人の関係であれば恋愛だったり親子愛だったり友情であったり、答えに近いものを知ることはできるかもしれない。なのに個人と全体、個人と共同性とかになると、もう全然答えなどない。あるいは答えらしきものがあり過ぎてコンフリクトしてるだけだ。超高度資本主義からアルカイダまで、どこにも答えがないのが現実だ。この答えがない、というリアルに、本書はささやかだけど、カウンターを打ち込んだ気がする。
著者は「未来についての夢だ」というけれど、案外はやくリアルな夢になるような気がする。少なくとも、本書を読んだら、ちょっとは元気になるはずだ。褒め過ぎかもしれないが、ある意味ですごい本だと思う。
●<重層的非決定>?とか
アルチュセールが「資本論」から読み取った<重層的決定>(全体意志?の積分?)といったヘーゲル的な意志の積分に対して、<重層的非決定>と揶揄した吉本隆明さんの指摘がある。それが「一般意志2.0」とオーバーラップしそうだ。
著者の『動物化するポストモダン』は「思想地図」で名指しでリスペクトされていた数少ない思想家、吉本隆明さんの代表作『共同幻想論』を思い起こさせるイメージがある。まあ著者が影響は受けていないがアディクティッドされそうだという吉本さんの仕事との共通点はあるのかもしれない。
本書は結論への準備として<憐れみ>を動物的な概念とするローティを紹介し、その「私的で身体的な反応が、公的な論理的で熟議の限界を壊す」(P212)と主張する。私的で身体的という究極の近接性?が論理を超えるのは当然(血コワイ怪我イタイとかはカンタンに論理を超えるし)かもしれない。そして、その反応=ジャッジを公共性や社会性のために演繹?させるスキームはどんなものなんだろ?というテクニカルな問題が著者を含めて読者みんなに投げられている。
「たがいに憐れみを抱き」「公共性が担保される」(P220)というのはまるで文学の世界観だけど、シェークスピアを持ち出すまでもなく悲劇の共有は読者やオーディエンスにとって最大公約的なスタンスだ。隣人や相手の欠落を補い合うのはもっとも普遍的な共同体(性)の原理なのだから。(もっとラジカルに人間の関係性は恋愛から国家まで、同じ原理(性差)で通底してると考える『経済学・哲学草稿』の問題提起はここでも有効かもしれない)
ただココには、憐れみをめぐる2つの立場からの“憐れんでもらってウレシイ?”という疑問や“憐れんでやるヨ!”という態度?などニーチェが示唆したような問題があるかもしれない。前者は屈辱を後者は傲慢を隠蔽しているのではないか…。
結論?の「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する」(P240)というのはベタな批判を浴びそう。でもそこで批判者の理解力や思考能力がバレるのもたしか。著者はいつもイジワルに読者で遊んでいる感じもする。『社会契約論』の原文を読んで作田啓一や桑原・前川の訳が意訳であることに気がついたのが本書のキッカケでもあるらしいのだ。それを無視して本書を社会契約論の文脈とは違う!と批判するのはあまりにも稚拙だ。本書や著者そして読者を一般バグとレッテルする一般バカが登場するのも著者のイジワルさが原因かも?
「ハイデガーは、世界への配慮こそが人間(現存在)の基礎をなすと考えた」(P251)という本書最後の注1はいちばんラジカルな主張だ。反対?に“自己への配慮”というものを考えていたらしいのがフーコー。同じように考える(特にフーコーとの対談以降)吉本さんの理論によればこの2つの配慮は相互に転換し、発展していくもの。自己と世界が不可分の胎児の認識は、そこからの遠隔化と近接化を繰り返しながら発展するからだ。精神分析もそこまで読むともっと有効なはずだ…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
最近のコメント