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2011年12月17日 (土)

『ナショナリズムは悪なのか』…ブレークスルーを待つナショナリズム論?

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人・NHK出版新書)

P11
反ナショナリズムという立場そのものが、
肥大化した自意識による付和雷同の結果である…

体制批判的でリベラルな立場の象徴は、
じつは同調圧力に対する弱さのあらわれなのである。

 反ナショナリズムへのキビシイ言葉からはじまる本書。著者の萱野稔人はまったく新しい保守?あるいはナショナリストなのだろうか? キビシイのはズバリと当たっているからであり、それは同時にナショナリストであることの動機にもいえることだろう。ドゥルーズガタリに拠りつつフーコーの研究家でもある著者は、方法としてマルクスと同じであるということさえある資本論特集の誌面で語ってもいる。

P30
私がナショナリズムを支持するのは、
あくまで国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、
アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。

 ここで示されているスタンスはまったく従来の保守とは違う。ウヨクの大部分がアイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムや国家でしかないことは常識的には明らかであり、中間層的なスタンスではそれが幸福という名の利益に置き換えられているだけに過ぎないのもバブル以降のスタンダードな認識だろう。大衆がなにをどう選択するかは個々人の蓄積と願望とTPOによってまちまちだが、個人をいちばん制約するモノゴトとその由来がどこからか、そしてどこへ向かっているかは、言外に誰にでもわかっているのが現代だ。この過視化した情況での言説が本当のポストモダンならば、著者のスタンスもパフォーマンスも見事なポストモダンだ。論拠がトートロジーであることを認めている著者は、次にどこへ行くのだろうか。OLがコムデギャルソンを着られるようになってから、ユニクロばやりの現在まで、失われた20年は長くなく、しかもその事由を捉えられた言説は少ない。本書が新鮮であることは確かだが。

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左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?

 ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。

 アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。

 ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。

 パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。

 ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
 法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうるということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。

基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。

P176
ネグリハート<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。

 これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。

           
新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)

著:萱野 稔人
参考価格:¥777
価格:¥777
   

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 欧米的な認識では国家と政府(政治権力)は別であり、そのために選挙で政府を交替させるのは日常的。選挙による民主主義の当然の姿だ。かつてのミッテラン大統領のように左翼の代表が“フランスの父”をキャッチにしても違和感がなく左翼と国家は普通に並立する概念にすぎない。ところがアジア(アフリカも)や日本では国家と政府の峻別が曖昧だ。そのために長期政権や独裁がみられ、それらへのアンチな運動は顕著ではなく民主的な政権交代でも政策のドラスティックな変更はない場合がほとんどかもしれない。

 日本の左翼やポスモダでは政府への批判がイコール国家批判・ナショナリズム批判になりがちだ。それこそ政府と国家あるいはナショナリズムの峻別がなされていない証拠。こういった左翼イデオロギーをはじめとした曖昧でしかもファンクショナルな理論をラジカルに解体することを目的としたのが吉本隆明だった。本書の参考文献にその『共同幻想論』が入っていないのが残念。

 「言語の共通性をつうじてその地域の法的な意思決定がなされる」ところに最終的な根拠を求めている著者の認識(国家やナショナリズムの)は近代国家の定義の典型でもある。だが現実にはEUにもロシア(旧ソ連)にも域内住民の言語の共通性はない。むしろ世界で唯一公用語=国語を設定しなかったスターリン憲法の先進性や多文化主義の方が見事?だが、その結末もユーゴ内戦、ルワンダのジェノサイドに象徴されるように楽しいものではなかった…。
 萱野が援用し依拠するDGもフーコーも(そしてマルクスも)、ヘーゲルとの闘争を経て欧米(と言語)の限界に突き当たった思索者であることが示唆しているものは大きいだろう。

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