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2011年12月31日 (土)

「アタシの…」もっとも複雑なキャラ

「アタシのことがキライでも」…から
「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください

 あつこの言葉でとっさに思い出したのが新選組司馬遼太郎だった。TVでは和田アキ子があつこの言葉に対してわからんと連発していた。「なんで、こんなんいう? わからんて、全然わからん!」と困惑顔だ。司馬も和田も同じ大阪人で、このちがいは何だろうとちょっと不思議だったが、一般的にはそうなのかもしれない。新選組(の出身地域)から日本でいちばん複雑なキャラを読み取った司馬とアイドルのコメントも理解できない和田。後者が多数派なら日本はあまりしあわせではないし、歴史的事実として前者の読みはシカトされるものだからだ。

 新選組は自らが所属する共同体の政治体制である幕府のために殉じた組織だ。しかも幕府は新選組に報いない。この農民出身の武装勢力を江戸を救うための生贄のように扱ったともいえる。
 新選組は幕府のために戦っているのに江戸に入ることを禁じられている。そのために江戸の外延である武蔵野を転々としながら戦い、死んでも幕府の墓はおろか江戸に墓を作ることも許されていない…。

 新選組は自らと同じ農民出身の薩長官軍と戦いながら何を考えていたのだろう。
 この思いと行動と沈黙の行為の全体像に司馬は日本でいちばん複雑なキャラの発現を見出している。

 甲府城は江戸防衛の要だ。この甲府城をめぐる戦いで新選組とそれを支える地域のエートスキャラが象徴的に表出する。

 甲府城へ向かう新選組は途中いろいろなところで歓待され、飲めや歌えやするうちに甲府城には官軍が到着してしまう。新選組の拠点である多摩や武蔵野から甲府城までは1、2日でたどり着く距離にあるが、連日の各地の歓待で数週間もかかってしまったようだ。 これは何を意味しているのか?
 新選組と歓待する農民は阿吽の呼吸で進軍を自ら遅らせたのだと考えられる。自分たちと同じ農民平民出身の官軍に勝たせたかったのではないか…。たぶん語られない真実としてこれが正解なのだろう。

 幕府に殉じながら報われることはなく、官軍を勝たせながら許されることがなかった新選組はある意味で沈黙の存在。勝利した薩長の明治政府下、新選組に関して詳述はし難いなかで、やがてその周辺からは主権在民の憲法が主張されることになる。この自由民権運動が新選組とゆかりのあるものであることはあまり語られない。
 明治をひっくり返して「おさまるめい(「治」「明」)」と揶揄した江戸の人たち。薩長と公家が発案した新しい江戸の名前「とうけい」。この漢学をひけらかした気取った名前も江戸の猛反発を受け、明治17年とうとう東京駅の駅名プレートに「とうきょう」(「東京」)が正式に掲げられ、「とうけい」は消えた。

 新選組はキラわれても江戸を救ったし、江戸幕府方も新選組を生贄にしながら江戸を守った。

 幕府の有能な官僚を処刑したために能吏がいない明治政府は森鴎外に執拗に仕官の依頼を繰り返すような状態だった。軍部でも薩長閥は太平洋戦争最後の陸軍大臣阿南まで続いたという指摘もあるほどだ。統制派皇道派などの派閥の原点に薩長閥問題があったのは事実で、政府の統制以前に軍部内のコンフリクトは軍部そのものの力を増大させてしまっともいえる。226事件のように地方と都市の対立、農本主義と産業ファシズムの対立といった緊張も全体として日本を強大な統制国家へ向かわせる契機になってしまっている。昭和13年には国家総動員法(ファシズム法)が制定される。

 明治維新で東京への行幸という建前だった天皇は昭和天皇の崩御をもって終わり、平成天皇即位で東京は正式に都になった。

       -       -       -

           
東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

著:東 浩紀 , 他
参考価格:¥1,218
価格:¥1,218

   

           
思想地図β vol.1

編集:東 浩紀
参考価格:¥2,415
価格:¥2,415

   

 地方と都市それを象徴する東京という問題がある。逆にいえば東京という問題を解析すれば、すべてが把握できる可能性があるとも考えられる。『東京から考える』にはそういったスタンスと可能性があった。
 北田暁大単著での続編を断念したのも象徴的。東京の問題を考えられる人が少ないという証拠だからだ。オタクの問題というのは東京の問題”と早くから見切っていた東浩紀がここでも鋭い。

 あつこのコトバは、日本でもっとも複雑なキャラと司馬が評した江戸=東京周辺のエートスからはデフォルトに近いもの。それがわからないで何がわかるのだろう?

 逆にそういったアプローチからでも東京(的)なるものを探求できるはずで、北田の断念は惜しいものだと感じられる。東浩紀がいう一般意志2.0は語られないものであり、意識した語りではないものであり、相反する個人の意志を相殺したあとで残るもの…だというのならば、コンフリクトしつつ圧倒的なプレゼンスを示す東京のエートスというものを対象として想像したくなるのは禁じ得ない。一般意志2.0そのものに極めて近似したものとしての東京。あるいは一般意志2.0に近似するがゆえに解りにくい東京がココにある。

 ソ連時代からモスクワ市民権が特別であったように中国も上海や北京の市民権は特別でもある。ところで東京は特別か? どこが特別か? そして大阪は特別を目指すのか?

 意味不明に人を魅了する、幻惑する、誘惑すること以外に東京が特別なところはないだろう。しかも東京への誘惑はその人間の欲望の鏡であってそれ以外ではない。東京は特別だがその原因?は東京にはない!? 東京をめぐる思索は、たぶん無限だ。

       -       -       -

東京にはレイヤーのようにオーバーラップされ同一視されている問題がいくつかある。

 1.東京が都市であること。
 2.東京が国家であること。
 3.東京が地方であること。

まず大前提としてこの3つの峻別が必要だ。逆にいえばこの3つの混同に東京(への)幻想の根拠もあるのだろう。東京学(参考に『東京学』)というものは東京の存在に反比例して小さく、また7割以上が地方出身者ともいわれる東京の構成員の複雑さそのものが幻想の東京をますます肥大化させている。そしてすべてがデフレトレンドなのが東京(都市)の特徴かもしれないが…。無方向無意味無制限な多弁が他者にとって意味を成さないように、あらゆる意味を成さない沈黙から感受し考察する以外には東京へのアプローチは困難だ。だが個人にとって沈黙は幹だと吉本隆明が指摘する(『日本語のゆくえ』東工大講義「芸術言語論」から)ように、個人の沈黙や意味不明を考えるところに唯一の可能性があるハズではないのか。

2011年12月27日 (火)

「アタシのことが…」女神という巫女

「アタシのことがキライでも」…から


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 …このあつことは違う、より本質的に巫女タイプであるメンバーがいる。
 AKB48初期にあつことともに2トップとまでいわれた小嶋陽菜こじはるだ。
 彼女は小学生の頃からレギュラー番組を持つほどのプッシュと人気があり、業界歴は長い。天然とも計算ともいわれるキャラはプライベートでは誰にでも好かれるもののようだ。だがこじはるは言葉が巧みでもなくパフォーマンスもおとなしい。NHKのドキュメントで目標をきかれて「このままでいたい」とだけ語った彼女には、このまま/ではないところでは自分が通用しないことへの自覚があるのかもしれない。
 同じドキュメントで「永遠のアイドル「考え中」と答えたのがゆきりん柏木由紀)とまゆゆ渡辺麻友)。理由はちがっても<いま/ここ>を全面肯定しそこに大きく依存していることへの自覚では、この3名は同じなのだ。AKB48を自分の夢の実現のためのステップととらえるその他のメンバーとの際立ったちがいがここにある。今の姿が、AKB48であることが…目的である者と女優や作家や声優になることが目的であることのスタンスのちがいだ。この3名の順位が上昇したのはAKB48的なものが評価された証拠だろう。

 逆に順位を下げたものもいる。絶対に崩れないはずの神7から板野友美ともちんが脱落し、秋元康が10年に一人の逸材という松井珠理奈じゅりなも順位を下げた。AKB48を知らない人からも容姿やファッションが評価されるともちんはその分だけAKB48的ではないのかもしれない。オリジナルなAKB48よりプロ志向が強く粒ぞろいともいえるSKE48はAKB48が初めて初週ミリオンを達成した頃にはavexへの所属が決定していた。SKE48で小学生デビューでもあったじゅりなはドキュメント番組まで作られている。こういうプロぶりがAKBらしくないと評価された可能性もあるのかもしれない。

 象徴的なのは高橋みなみたかみなの順位だ。
 秋元が「akbとは高橋みなみのことである」という高橋みなみ=たかみなもワンランク順位を下げた。これは「会いに行けるアイドル」からマスメディアの人気者でありミリオンを連発するようになったアイドル(プロ)への変遷を象徴しているだろう。予定調和を避けたい秋元は誰でも会いにいけるアイドルとマス・メディアに乗るアイドルとのきわどいバランスをキープしつつAKBをプロモーションしているようだ。「たかみなの順位に注目している」…総選挙の直前に秋元は多少緊張しながらそう答えている。たかみなの順位の変化は圧倒的にマス化しはじめたAKBの現状をそのまま反映したものなのだ。そしてこじはる、ゆきリん、まゆゆの順位の上昇はAKB的なものへの支持が一般化したことを示しているのだろう。AKBのスタイリスト茅野しのぶがNHKの「東京カワイイTV」で今年はオタクがメジャーになると指摘(宣言?)したのは勝利宣言でもあるかのような気がしたほどだった。それがオタク的なものAKB的なもののメジャー化という避けられない矛盾をともなうものであることもたしかだ。

 順位を急上昇させたのが指原莉乃さしことゆきりん。どちらもTVにレギュラー番組を持っている強さもがある。ヘタレとして人気のさしことお天気おねえさんとして世代を超えて知られているゆきりんはそれぞれファンを急拡大させた。さしこは実験番組ではありながら異例の放送期間の延長までした冠番組の最終回で、お父さん番組終ちゃった…と泣きながらコメントしたラストはベタもネタも超えてある意味リアルだった。AKBのリアルというものにシンクロできるのがファンなのかもしれない。

 19thシングル選抜じゃんけん大会では優勝し「チャンスの順番」で初センターをゲットした内田眞由美うっちーへの評価が興味深い。ここでセンターになれなかったらAKBを辞めようと思っていたといううっちーのコメントに対して、そのネガティブさを批判する意見が殺到し、先の選抜総選挙でも順位は圏外にとどまった。あくまでポジティブでいくのがAKBファンなのだ。

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 こじはるは同期や同世代以外とのコミュニケーションが少ないらしい。レポートなども上達?しない彼女はどうも言葉によるメッセージも稚拙だ。「このままでいたい」という彼女は「わかってほしい」ともいう。演技が大根とも評される北川景子と同じような悩み?をこじはるも持っている。女性たちから女神ともいわれる彼女の容姿はメンバー間で彼女の取り合い?になるほどだが、新橋駅前でサラリーマンのオヤジにインタビューすると驚くほど「こじはる!」「はるにゃん!」一色でもある。このことが物語っていることは意味深い。有名お笑い芸人が深夜に出待ちで待ち伏するほどの人気なのだ。またプロのファッション評論家が驚くほどファッションセンスがいい。このセンスの良さはAKB全体100数十名のなかでこじはる、篠田麻里子まりこ、ともちんの3名がダントツだ。

 容姿とセンスそして歌唱力にめぐまれながらも言葉に巧みではなくパフォーマンスが弱いこじはるには本質的に巫女的なものがありそうだ。占い師に外見に魅力があって(も)中身は全然何もないと断定されるところが、ある意味まるで巫女なのではないかと思わせたりもする。巫女は共同体の予期の入れ物であり期待の鏡であって主体性があってはならないからだ。

 冗舌な巫女は信頼されない。なぜならそれは知識人だからだ。言葉巧みである知識人は常に言葉と知見のチェックを受ける。それが彼らの運命だからだ。言葉のすくない巫女たちは周囲をミメーシスするようなパフォーマンスを日頃から求められる。それが彼女らの役目だからだ。巫女から知識人への変遷は如実に言葉に現れる。このことをベースにした吉本隆明の詩論は、ここまでも射程においているといえるだろう。

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 プライベートでは「暗い」と自称するあつこやたかみな。AKBがなかったら自分らには何もなかったともいう。結婚なんて想像もしないとも。彼女らにあたえられたステージはより普遍性を増しつつ拡散する運命にある。ただ共同幻想論でいう巫女と異なるのは家ではなくともいつでも帰れる劇場があることかもしれない。会いにいけるという対幻想の束の間の充足に惹かれるファンと、応援してもらえるという巫女たちのゲームをビジネスモデルとしてAKBは生まれたのだ。

 現在メンバーは恋愛禁止をはじめとしたいくつかの掟のもとにある。注目され期待されていた数名のメンバーや研究生らがAKBを去ってもいる。ステレオタイプにさまざまなオタクを集めてつくった中野腐女シスターズが音楽活動を停止するいまAKBはメジャー化という根本的な矛盾へ向けてダイブする運命にあるしそれしかないだろう。NMB48が所属の吉本興業から?と評価されだしたらしいが、メジャー化を指向するのがあたりまえの世の中で、AKBに求められている課題は小さくはない。普通の女の子に戻るしかなかった伝説のアイドルグループ、キャンディーズ。女子大生ブームをブームで終わらせてしまったオールナイトフジ。それなりの結果を残したおニャン子クラブ。このいずれとも違った展開が期待されるはずのAKBの今後は予想がムズカシそうだ。

 学者が書いたあるAKB分析?本でもこじはるは名前が出てくるだけでまったく考察されていない。理由はカンタンで単に考察できないのだろう。それほどこじはるの手がかり?となるような表出が少ないのかもしれない。しかしそれこそがある意味で巫女的なものであるとすれば、共同幻想論的なものが吉本にしか書けなかった証左でもある。誰にも明らかな手がかりがなければ考察できないような能力やスタンスで何が考察ができるのか?

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。
『共同幻想論』

 こじはるだけが恋愛禁止を解かれる可能性について秋元はどこかで触れている。その意味するところが巫女的なものからの離脱であるとすれば、時代はそれだけ進歩したといえる。雲散することなく日常への平穏な着地を見送ることをできるシステムを秋元は<卒業>として設定した。巫女というノンバーバルな表現主体をプロデュースする秋元は自覚なき(古代の)知識人といえるかもしれない。

       -       -       -

 AKB48からのスピンアウトユニットでこじはる、たかみな、峯岸みなみみぃちゃんの3名で構成されるno3bがある。3名とも歌もダンスもうまいのは当然、ガチャンピンともニックネームされるみぃちゃんの歌唱力はバツグン、たかみなはもともとソロシンガー志望、AKBオーディションでプロを感心させたこじはるの歌。最大の特徴は3名のキャラがバラバラなこと。最強ユニットといわれる理由はそこかもしれない。20年後も芸能界に残ってると秋元が保証するみぃちゃんはトークが上手くAKBメンバー中では頭の回転が早くて一目置かれている。このno3bというたった3名での構成員の幅のひろさがポイントだ。AKB48初期にあつことともに2トップを飾ったこじはるとAKBの顔になりつつあったたかみなをあわせ、ダークホース的にみぃちゃんを組ませたユニットは、AKBをめぐる情況をある意味で打開していった。ただのアキバローカルな存在?とも思われかねなかったAKB48がメジャー化への意志を示した第一歩にみえた。権力が2名でも生じるように、「多様性予測定理」は3名でも発現する。

 こじはるの雰囲気に恐れをなして1年間も口をきかなかったたかみなと、こじはるに一生けんめい話しかけ続けたみぃちゃんとこじはるのユニット。no3bはいま仲がいいことをひとつのウリにもしているほどだ。<純粋ごっこ>と吉本が指摘した青春期ならではの友だちの関係をトレースすることは最大のSPかもしれない。ジジェクが現在というものを<ソーシャルまで売りやがって!>というのはきわめて正しいだろう。問題は買えるかどうかなのだから。

2011年12月26日 (月)

「アタシのことがキライでも」…から

「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 6年前に観客7人の劇場でスタートした彼女らはいまやミリオンを連発する。
 その神7とも呼ばれるメインメンバーのセンター、絶対エース前田敦子の言葉に客席の秋元康も涙ぐんでいる。

 117万票を集めた選抜総選挙は政治的な議員選挙よりも大きい。

 SCやコンビニ1社の売上が弱小国家のGDPをはるかに超えるように、ここでは信用もマネーもそしてさまざまな影響も想像以上に巨大なのかもしれない。この得票を超えるような規模の政治的な選挙など数えるほどしかないだろう。

 そこで絶対エースと呼ばれる彼女=あつこは1位に返り咲いた歓喜の中で、涙声から絞りだすように言った。そこにはどこにも勝ち誇るようなおもむきはなく、AKBという共同体のためにだけ渾身を込めて伝えようとする彼女の姿があった。

 この夏まで…とメンバー自身が予想していた人気は、その夏までに大ブレイクしてしまった。

 他のメンバーのファンに嫌われる覚悟と、AKBという共同体を至上のものとしているあつこの思いがそのままの言葉はシンプルだ。自分とAKBをトレードオフしようとするこの態度は共同体にとっての巫女のものと同じ。さかのぼれは生贄のニュアンスとも近似する。

 自分がキラワレてもいいからAKBのことをキラワナイでというスタンスは、共同体をめぐる巫女のように、自らの(運)命がトレードオフされている。
 ファンにとってアイドルは多少でも巫女的な趣きがあるが、所属するグループにとっても巫女的であることを彼女は自ら示している。それがセンターの意味であり絶対エースの価値なのだろう。

 選抜総選挙での投票権はCD等に付いてくる。そのために投票目的での大人買い?が多数いるのでは?と一人一票の公正な選挙ではないという批判がTVキャスターなどからあった。あつこと1、2位を争った大島優子ゆうこはいう。票はアタシたちへの愛です…そこには愛が強ければ何票入れてもいいはずという解釈もアリで、ファンの喜びとともにメジャーなメディアへの反駁への共感もあり会場をわかせた。子役時代から業界が長いゆうこならではの政治的とさえ思えるレスポンスの説得力は小さくはない。あつことは対照なゆうこという存在もAKBの幅のひろさを示している。実際には売れまくったCDの数と比べれば投票は少なく、大部分のCDは聴くために買われたことが数字上証明された。音楽としての正当な評価もAKBを支えていることになり、彼女らのメジャー化は本物であることが確かめられたといえる。

 今年は結局年間トップ5を独占してしまった。

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 「大声ダイヤモンド」が耳に残り、「Beginner」のセンター別バージョンのプロモに興味を持ち、「RIVER」を思い出し、「桜の木になろう」に惹かれた頃にはメンバーの名前を憶えてしまっていた。しばらく前までたかみなとゆうこの区別がつかなかったのが信じられないくらいだが、見納めにふさわしいと思ったのは「ヘビーローテーション」のTVプレミアヴァージョン。センターゆきりんSKEフロントと走り隊7というフォーメーションだった。来年のフロントメンバー推し企画だろうけど。

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。(『共同幻想論』

 雲散していく先を探していくハイ・イメージ論は早すぎた批評だったのか?
 いまこそオンタイムのハイ・イメージ論にリスペクトしつつ、AKBを観たり聴いたりしていて気になったのが選抜総選挙のあつこのコトバだ。

       -       -       -

 一般意志が正確で強固なのを論理的に数学的に証明したとしてスコット・ペイジの「多様性予測定理」「群衆は平均を超える法則」『一般意志2.0』で紹介されている。
 AKB48はメンバーの幅とそれをフォローするファンの幅が広く、この2つの法則があてはまるサンプルとしてもピッタリ。昔?プロのヒット予測が当らなくなり(的中率50%以下)CDの売上がダウンする中でTKは登場して大ヒットを連発した。この時のプロの論者によるTKへの批判や非難は単に自己防衛か嫉妬やヤッカミだが、そもそもプロの予期が当たらないのは原発事故でも確認されてしまった。
 ネットではジャスミン革命から直近の話題まで特殊意志があふれている。そこから一般意志を抽出することは困難ではなく、その可能性にかけた『一般意志2.0』の示すものは大きいし、明るい。選抜総選挙ほどの票も集まらない政治選挙の意義はホントウにないのかもしれないし、巫女が発現させたものがリアルな政治を超えるのはありうることなのだ。
 共同幻想では推しメンとファンの関係を語れる、一般意志はそれが政治や国家のあり方に波及するトレンドが語れる。スコット・ペイジのいるサンタフェ研究所といえば複雑系の拠点としても懐かしい?かもしれないが、投資の予期などで現役だ。しかしバブル経済とその崩壊は予期できないことをも証明してしまった。金融工学のノーベル賞の翌年には受賞者のヘッジファンドLTCMがロシアのデフォルトで破綻している…。現実のコンフリクトは常に最大値だが、思索は常にそれを超えようとする。衆愚(大衆)そのものに解を求めたスタンスは共同幻想も一般意志もまったく同じようだ。

2011年12月23日 (金)

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』…微分された共同幻想

『一般意志2.0』…市場の要素としての<一般意志>?!

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●動ポモと同じ文脈の問題提起?

 「思想地図」でリスペクトされた日本の思想家は吉本隆明と小林秀雄くらい。その想像力に対して畏敬の念にも近似する感覚を覚える人間は少なくないかもしれないですが、大多数の人間にとっては関心もないし、ましてや理解など(でき)ないのが現在なのでしょう。吉本に影響は受けてはいないがその仕事の志向にアディクティッドしてしまいそうだ…とどこかで語っていた東浩紀さんは、本書である意味、吉本さんと同じようなスタンスに立ったのではないか? 『動物化するポストモダン』が東さんにとっての共同幻想論(吉本さんの代表的な著作)に見える自分には、本書のスタンスもそう思えたりします。(<共同幻想>というタームはマルクスの<上部構造>のことで、マルクスの著作中では<公的幻影>(公的イメージ?)などの定義もされているみたいです。)

 共同幻想を発現し体現している主体は大衆そのものだというのが吉本さんの観点。これが歴史の最大の動因でもありマルクスはそれを自然史過程として把握できる…と考えていたことを吉本さんも前提にしてます。共同幻想論はその大衆の意志から生じる観念(精神現象)の運動を追究したもので、人間は意識しないでそう思ったりそう考えたりする…その累積的な変遷(吉本タームでは重層的非決定ハイエクが影響を受けたカール・メンガーにも似た?ような認識「意図せざる結果」 がある)を研究したもの。単純にいうと、すべてに意識的で表象的で論理的な(コンスタティブな)(つもりの)欧米の認識(科学?)とはちがって、観念そのものに複雑な運動を内包するアジア的(日本的)な認識の可視化が吉本さんの仕事の志向なのでしょう。

 ヘーゲルの意志論による意志(精神現象)の展開にマテリアルな裏づけをしたのがマルクスの下部構造(経済=モノを媒介にした関係)への鋭い考察。吉本さんの共同幻想論(上部構造論)はこの展開の仕方そのものを考えたもの。柄谷行人さんのスタートも『資本論』における上部構造と下部構造の関係をどう捉えるのか?というところから始まったもののようですね。

 動物化はヘーゲルからマルクスまで継続する意志論の背理的な一面を示す概念ですが、東さんはそれを全面化(前面化)しました。今回の<一般意志>もその文脈?で考えるとわかりやすいのかもしれません。
 マルクスでは上部構造として吉本理論では大衆(の意志)として対象化されてきたものがここでいう一般意志? 吉本さんの共同幻想へのアプローチではルソーも影響していることを橋爪大三郎さんが指摘していました。一般意志は、意外なほど共同幻想論へとストレートな経路になっていて、それはマルクスでも同じかもしれません。

●テクノロジーと論理の向こうにあるもの?

 議論を尽くす民主主義も論理的に詰めていけば(テクノ)ロジカルには<アローの定理>のように不可能性が証明されてしまいます。東さんはそういう限界をブレークスルーしようとしているともいえるかもしれません。

 共同性とか共同体の意志とは…何か?と問うときに、それを規定するものとしてマルクスは経済構造(下部構造)を考え、そこから表象する文化など意志的なものは上部構造として別途に考察した…。
 <世界>や<歴史>とは人間の<人生>を差し引いた後に残るものだ…という基本的な認識の構図はマルクスも吉本さんも同じ。東さんが紹介する一般意志も同じように考察され、シンプルに全体から個を差し引いて残るものを一般意志としていますね。
 マルクスは経済学批判として資本論を書き、政治学批判もバラバラとは手がけていて、そのコアになるのは本書で提起されている問題意識と同じなのでは?と推測できます。
 経済学などでよく指摘される「合成の誤謬」「コーディネーションの失敗」というものは民主主義の矛盾としても、もっとも露わになるものだけど、それは民主主義の限界そのものであるかも…。

 大衆の(意志の)無謬性を否定する宮台真司さんのような観点もありますが、そもそも大衆の意志とは何か?それは可視化できるのか?という問題がクリアされていなければならないはず。あまりにも当たり前だけど、東さんは空気のように意識されないできた一般意志を可視化することを主張してます。この誰もができない(意識しない(できない)ので出来るわけがないが)ことにスポットをあてた東さんの功績は大きいでしょう。

●タイムリーでクール?

 共同幻想や大衆の意志といえるものを「一般意志」としてピックアップした感覚は、それだけでもクールで期待したくなるもの。

 SNSからはじまった北アフリカの革命やウオール街への抗議、シリア問題などはまだ続いているし中国などでもネットは一党独裁政治に揺さぶりをかけている。でも注意したいのはそんなことではなく、ネットもSNSも光ファイバーもWIFIも普及しつつある日本で<何も起こらない>ことでしょう。

 僕なんか逮捕されちゃうよ…と幾度かtwitterや書籍でつぶやいている東さんですが、その思いをこういう形でキチッと本にできるのは、ある意味で恵まれているからかも? 人それぞれに、そういう自分のポジションや環境を活かしていくのが、これからの社会になるはずだし、願望されるもの。個人がそのままで生きていけるための思索としてここまで到達した?のだと思います。きっと本書は『郵便的不安たち』からの延長でもあるはずです。

 アメリカの大学でウイッキーペディアの使用が禁じられたり、全世界でのインターネットの普及に反比例するかのようにPVがマイナスに転じたり、ネットが当然である世界でリバランスなり正常化?の動きは数字に現れているとおり。だからこそ本書はリアルに意味と価値があるしタイムリーな一冊だと思います。

           
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

著:東 浩紀
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

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 一般意志は、全体意志から特殊意志の相殺しあうものを差し引いた和である…という数行だけを立ち読みして、このレビュー?を書いてみました。どこまで当たってるかな…

2011年12月17日 (土)

『ナショナリズムは悪なのか』…ブレークスルーを待つナショナリズム論?

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人・NHK出版新書)

P11
反ナショナリズムという立場そのものが、
肥大化した自意識による付和雷同の結果である…

体制批判的でリベラルな立場の象徴は、
じつは同調圧力に対する弱さのあらわれなのである。

 反ナショナリズムへのキビシイ言葉からはじまる本書。著者の萱野稔人はまったく新しい保守?あるいはナショナリストなのだろうか? キビシイのはズバリと当たっているからであり、それは同時にナショナリストであることの動機にもいえることだろう。ドゥルーズガタリに拠りつつフーコーの研究家でもある著者は、方法としてマルクスと同じであるということさえある資本論特集の誌面で語ってもいる。

P30
私がナショナリズムを支持するのは、
あくまで国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、
アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。

 ここで示されているスタンスはまったく従来の保守とは違う。ウヨクの大部分がアイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムや国家でしかないことは常識的には明らかであり、中間層的なスタンスではそれが幸福という名の利益に置き換えられているだけに過ぎないのもバブル以降のスタンダードな認識だろう。大衆がなにをどう選択するかは個々人の蓄積と願望とTPOによってまちまちだが、個人をいちばん制約するモノゴトとその由来がどこからか、そしてどこへ向かっているかは、言外に誰にでもわかっているのが現代だ。この過視化した情況での言説が本当のポストモダンならば、著者のスタンスもパフォーマンスも見事なポストモダンだ。論拠がトートロジーであることを認めている著者は、次にどこへ行くのだろうか。OLがコムデギャルソンを着られるようになってから、ユニクロばやりの現在まで、失われた20年は長くなく、しかもその事由を捉えられた言説は少ない。本書が新鮮であることは確かだが。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?

 ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。

 アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。

 ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。

 パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。

 ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
 法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうるということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。

基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。

P176
ネグリハート<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。

 これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。

           
新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)

著:萱野 稔人
参考価格:¥777
価格:¥777
   

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 欧米的な認識では国家と政府(政治権力)は別であり、そのために選挙で政府を交替させるのは日常的。選挙による民主主義の当然の姿だ。かつてのミッテラン大統領のように左翼の代表が“フランスの父”をキャッチにしても違和感がなく左翼と国家は普通に並立する概念にすぎない。ところがアジア(アフリカも)や日本では国家と政府の峻別が曖昧だ。そのために長期政権や独裁がみられ、それらへのアンチな運動は顕著ではなく民主的な政権交代でも政策のドラスティックな変更はない場合がほとんどかもしれない。

 日本の左翼やポスモダでは政府への批判がイコール国家批判・ナショナリズム批判になりがちだ。それこそ政府と国家あるいはナショナリズムの峻別がなされていない証拠。こういった左翼イデオロギーをはじめとした曖昧でしかもファンクショナルな理論をラジカルに解体することを目的としたのが吉本隆明だった。本書の参考文献にその『共同幻想論』が入っていないのが残念。

 「言語の共通性をつうじてその地域の法的な意思決定がなされる」ところに最終的な根拠を求めている著者の認識(国家やナショナリズムの)は近代国家の定義の典型でもある。だが現実にはEUにもロシア(旧ソ連)にも域内住民の言語の共通性はない。むしろ世界で唯一公用語=国語を設定しなかったスターリン憲法の先進性や多文化主義の方が見事?だが、その結末もユーゴ内戦、ルワンダのジェノサイドに象徴されるように楽しいものではなかった…。
 萱野が援用し依拠するDGもフーコーも(そしてマルクスも)、ヘーゲルとの闘争を経て欧米(と言語)の限界に突き当たった思索者であることが示唆しているものは大きいだろう。

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