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2011年10月 4日 (火)

『共同幻想論』・規範論から考える

 「規範論」は宗教からはじまって法や国家に至るまで貫かれている<規範>の特定の位相についての考察です。約束から掟、法とさまざまなレベルの<決まり>がありますが、その決まりが生成する理由や意味への探究だともいえます。物象化の過程をフォローしたものともいえるかもしれません。

 別のいい方をすると、人間が自身をも含めて<自然>そのものを<疎外>していゆく過程への考察です。外化であり表出である<疎外>は、人間が産出するとともに人間を束縛し規定するもの。疎外論をベースとするマルクスの認識(方法)そのものがここにあるともいえます。共同性としては『ドイツ・イデオロギー』などで市民社会という動態から法という固定した社会の疎外態が生成する論理的な機序が描かれています。

 共同幻想は前段階の共同幻想を対幻想的なものへと抑圧することによって疎外することが指摘されます。社会の進歩(変遷)にともなう疎外態の変化を、あるいは疎外態の変化を社会の変化や進歩とみなすマルクスの鋭い洞察がありますが、ここではそれが古事記や日本書紀による日本の国家(像)の変化(共同幻想の変化)としてディテールへ踏み込んで論証されていきます。共同幻想が疎外されて家族(集団)的な幻想と化すというかたちで対幻想がフォーカスされる過程は吉本理論のオリジナルな成果でしょう。

 イザナギの物語の変遷が日本の共同幻想=国家(像)の変遷そのものを象徴していることの論証は、日本の国家論や訓詁学的なあらゆる検討のラジカルな解体を意味するものです。古事記や日本書紀の物語を編纂した古代の知識人のレベルや能力まで明らかにされ、知見の範囲までが特定されてしまう考察は吉本理論の破壊的な射程の深さを現しています。

 心的現象論において感覚から<形態>と<概念>が形成される過程は、この共同幻想論において<法>と<宗教>が形成される過程とパラレルでアナロジカルなイメージがあります。また、個体発生は系統発生を繰り返すという三木成夫の解剖学的な見地は三木を読む前から方法論的に吉本においても基礎的な認識として当然のものだったのかもしれません。

 ある行為が繰り返されるようになると、それを形態化(して把握する)する(ようになる)という合理的同調圧があります。常同反復行為はすぐに規範化します。社会においても市民社会で繰り返されたモノゴトに関してそれを形態化して把握するというのは法化のラジカルな哲学?でもあるでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【規範論】

P231
経済社会的な構成が、
前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、
<共同幻想>としての<法>的な規範は、
ただ前段階にある<共同幻想>を、
個々の家族的あるいは家族集団的な
<掟><伝習><習俗><家内信仰>的なものに蹴落とし、
封じこめることで、
はじめて農耕法的な<共同規範>を生みだした…

<共同幻想>の移行は一般的にたんに<移行>ではなくて、
同時に<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味する…

 「前段階にある<共同幻想>」を「封じこめる」ことで発展する…歴史の進行?というものが簡明に描かれています。ある意味で世界の進展と歴史の真理が簡明に描かれていることそのものが驚異的だと思わせます。
 「個々の家族的あるいは家族集団的」というのはそのまま<対幻想(的)>ということであり、「前段階にある<共同幻想>」が対幻想化されていくという過程が説明されています。驚異的なのはそれこそが歴史だという事実でしょう。世界の変遷とは共同幻想の変遷ですが、それは、いかなる共同幻想がいかに対幻想化されたかという視点から捉えることができるというこの宣言の射程と破壊力は凄まじいものがあります。

P231
『古事記』の神話で<法>的な共同規範としてもうひとつ問題なのは、
清祓行為の意味である。

…清祓行為は<共同幻想>が、
宗教から<法>へと転化する過渡にあるものとみなされる…

 <清祓行為>とカップリングされているのは<醜悪な戯れ>。こういうアプローチそのものがユニークであり興味深いものですが、その方法そのものが唯一のものである可能性が吉本のスゴサそのものを現しているといえそうです。
 <醜悪な戯れ>と<清祓行為>をアナロジカルに心的現象論の<原生的疎外>とその打ち消しとしての<生そのもの>(エロス・タナトス)の関係として考えると思索の可能性が拡がります。
 必然で常同的な観念が行為化し何らかの象徴性をまとっていく過程の分析はマルクスによる市民社会の分析とパラレルです。

P234
あらゆる対他的な関係がはじまるとすぐに、
人間は<醜悪な戯れ>を<法>または<宗教>として疎外する。


 日常の常同反復される行為はその度に新たに意識される必要がないために疎外態と化します。意識されない行為、自然に常同反復される行為がもっとも遠隔化された共同幻想として法や宗教となるわけです。“終わりなき日常”はこうして絶えず新たな法や宗教を生みつつあるのでしょう。<醜悪な戯れ>の理由を考えることは、ほとんどすべてのことを対象に探究することであり、ハイイメージ論はその現在の展開になります。

P238
<福祉>には<物質的生活>が対応するが
<共同幻想>としての<法>に対応するのは、
いぜんとしてその下にいる人間の<幻想>のさまざまな形態である。

 ニーチェの指摘にマルクスで返答しながら吉本自らの問題意識が提示されています。「その下にいる人間」と大衆を示唆し、「<幻想>のさまざまな形態」に戯れていこうとする密かな決意を読み取りたくさせる吉本ならではのテキストでしょう。“世界を凍らせる”という言葉の根源となる認識の一つのがここにあります。

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