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« 『共同幻想論』・規範論から考える | トップページ | 『共同幻想論』・起源論から »

2011年10月25日 (火)

『共同幻想論』・規範論から2

 「規範論」は古代日本において約束や掟、法というさまざまなレベルの<決まり>が<規範>と化す過程を追いながら、宗教や法、国家の生成を解き明かしていきます。

 天つ国、国つ罪の2つのレベルの法がキメラな国家の法を形成していく過程から2つの共同性の並列と混在が探究されます。

 宗教権力と政治権力の並列、神権的な勢力と農耕的な勢力の混在、祭と政…。狩猟と農耕…。それらにトーナリティをもたせていくもの。マルクスが示唆したアジア的なものとはまた別の「共同幻想の<アジア>的特性」 が考察されていきます。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【規範論】

P234
人間のあらゆる共同性が、家族の<性>的な共同性から社会の共同性まで
すべて<醜悪な戯れ>だとかんがえられたとしたら、未開の種族にとって、
それは<自然>から離れたという畏怖に発祥している。人間は<自然>の
部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。

 「<自然>から離れた」という認識は自然が対象化されたことを意味します。マルクスでは「組み込み」とか「埋め込み」といわれる概念で、<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく…というように考察されています。
 <醜悪な戯れ>を生みだした自然からの乖離とはどのようなものだったのでしょうか。マルクスが労働を媒介とするもの(その全般的な構造が下部構造)と考えたそれは、ここでは共同幻想(上部構造)として考察されています。

 「離れた」相当量が原生的疎外であり、そこからベクトル変容した観念から生成するのが「畏怖」です。心的現象論的には自我のエスからの離脱志向を自我を主体にすれば罪にエスを主体にすれば道徳になるもの。エスを人間個体にとっての自然とすれば、「<自然>から離れたという畏怖」というのはエスから離れた自我の罪(の意識)になるでしょう。
罪の意識が対象に投影されて畏怖として認識されるわけです。

P227
『古事記』のスサノオが二重に象徴している<高天が原>と<出雲>の両方での
<法>的な概念は、この解釈では大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接点を
意味している。それは同時に<天つ罪>の概念と<国つ罪>の概念との接続点を
意味していることになる。

 ローマ・カトリックがゲルマンのアニミズムを禁止し、やがてゲルマン側は神聖ローマの冠を戴いたように宗教と政治、権力のあり方は錯綜します。ユダヤ人の扱われ方から社会のレベルを解析したマルクスのように、社会(共同体)を時間性・空間性に解体しつつ不可逆な変遷(時間)と空間性の可換・不可換、時空間の変換を考察するというアプローチで古代日本の神話から日本という国家の成り立ちが明かされていきます。ルフェーブルが時空間性から都市問題を解析し、資本論をアルチュセールが時空間性で再読しようとしたように、それ以上の微分不可能なラジカルな概念装置による原理論は時空間概念を駆使したものです。

P229
氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されていくにつれて、
しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を
<共同幻想>として抽出するにいたった…

このような段階では<法>はどんな意味でも垂直性(法権力)をもたず、
ただ<国つ罪>に属するものに、いくらかの農耕法的な要素を混入させた
習慣法あるいは禁制として、村落の共同性を堅持するものにすぎなかった。

 「垂直性(法権力)」をもたない法のあり方とは何か? 上から?見れば宗教的道徳的な、下から?みれば日常的な、(まだ)権力ではない法が治める状態つまり政治未然の法治というものが示されています。逆にいえば法治主義が絶対だと思わせる現況の社会がある種の異常でありうる可能性さえ演繹できる観点があります。ゲームや形式論理においてルール(法)は絶対ですが、リアル(現実)はゲームでも形式(論理)でもないからです。ルールはルールの設定者の最大利益に最適化されている、ルールの尊守はルール外への対応を不可能にする…この2つは、コンプライアンスが尊ばれる現況では隠蔽されています。それが法権力(法治)のリアルであることは宮台が指摘するとおりでしょう。
 マルクスはマテリアルな関係が社会を規定しそれが法を形成することを当初から見抜いていましたが、吉本はその関係を意識の問題=関係性として抽出しました。法権力の行使をともなわない法の錯綜した集積が古代の社会であることは、法権力(ルール・ワク組など)が絶対化しつつある現代社会の歪や異常性を可視化してくれる可能性があり、『アフリカ的段階について』はこの法が権力化する過程をフォローしています。それは共同体の構成を維持するためのトレードオフを象徴する生贄はどのように変遷していくのか?…というような認識へのトリガーともなるものです。
 2つ以上の共同性が錯綜する社会の状態で対立や緊張を回避しつつ百余りの国家を統一していったスキーム?がここにあります。アメリカの合衆国憲法がネイティブの各部族が共存するためにつくり上げた掟や約束をベースにしているように、重層的非決定ともいうべき様相の共同性は、現在にどう作用しているのか? たぶんこういった問いが吉本のハイイメージ論を可能にしたのでしょう。

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